朔夜のうさぎは夢を見る

はるかなまほろば

 さすがに九郎の背に揺らぎはなかったが、意外の念は素直に滲んでいた。そして、残る面々は還内府としての将臣の存在感に呑まれている。
 立場上、前面に出るわけにはいかないと、人質の意味も兼ねての同席を求められて源氏方の最後列に控えていたは、その位置のおかげで全員の姿を視界に納めることができる。自分もまた息を呑みながら視界に映る面々を俯瞰し、ふと、違和感に内心で小さく首を傾げる。
「和議を結ぶことは、源氏にとっても悪くない話のはずだ。福原の背後を守るのは、平家が得意とする海戦だ。それに拮抗するだけの水軍のないお前らにとって、ここで手を打つのは悪くないことだと思う」
「あなた方が、真に和議を成してくださるのならね」
 畳み掛けてきた将臣に、次に口を開いたのは弁慶だった。思わせぶりにそう告げてからじっと探るような視線を持ち上げ、将臣と、そしてその隣に座す知盛とを順に見やる。
「“お父君”は、この話をご存知なのですか?」
「お前、それ、知って……」
「奥の手を隠し持ったままでは、とてもではありませんが信じられません。少なくとも、清盛公をどうするおつもりかぐらい、聞かせていただけるのでしょうね?」
 凍りついたような声は、容赦なく、冷厳だった。目を見開いて呻いてから、将臣は苦渋の表情を浮かべて唇を引き結んでいる。その反応は残る面々も似たようなものだったが、将臣の苦悶は、ごくわずかな時間のことだった。
「邪魔はさせない」
 ぐっと膝の上で握り締めていた拳に力を篭め、しかし持ち上げられた瞳はぎらぎらと強い光を弾いている。
「清盛にはまだ何も話してねぇ。けど、説得してみせるし、邪魔はさせない」
「そう簡単に、折れてくださるのですか?」
「いざ邪魔するとなったら、刺し違えてでも止めてみせる」
 血を吐くような悲壮さで言い切り、将臣はひたと弁慶を見返している。


 既に死んだ清盛の名がこうもあっさりと持ち出され、しかもいっそ還内府以上の権限を持つという暗黙の了解の許に繰り広げられる会話は、や敦盛にとっては弁慶がそれを正確に把握していたということへの驚愕を、九郎や景時らにとってはその事実への驚愕を誘発する。だというのに、の視界の中には、微塵の動揺も示さないいくつかの背中が収まっている。
 それこそが違和感の正体と、察しては瞳を眇める。ひとつは知盛。だが、彼はそもそも何かの知りえぬすべてを知っている風情を常に漂わせており、表情の読めなさ具合は一門において接していた数少ない面子の中でも群を抜いていた。よって、またなのかと、違和感と同時に妙な納得も覚えながら、次に見やるのはリズヴァーンの広い背中。
 寡黙で無表情な地の玄武は、時々実に珍妙なものを見る瞳でを見やる。さりげなくそつない気遣いといい、人生経験に裏打ちされているのだろう含蓄の深い言動といい、きっと徒人には見えない何かが見えているのだろうと勝手に結論付けていたのだが、この場における無感動さはその結論に逆に疑問を差し挟む。そんな程度では納まらない、もっと深くて根源的な何かがある。そして、その確信を誰よりも強くに抱かせるのが、望美の細くも強い背中だ。
 きっと、彼女はすべてを知っているのだと。漠然と得た納得は、これまでの彼女に対する恐怖心やら違和感やらをすべて氷解させるほどの強さをもって、すとんとの胸の奥に落ち着いた。そう、そうであるのなら、すべてが諒解できる。還内府への信頼も、この場での落ち着きも。そして、だからこそ信頼できる。その上で和議の道を求めるのなら、きっと彼女は、誰よりも確かな道標になってくれるだろうと。


 静かに観察を続けるの向こうで、停滞していた会話がゆるりと動きはじめた。
「和議を結ぶことによる、源氏側の益は?」
「三種の神器と帝の帰京の保障。戦による犠牲の打ち止め」
「では、平家側は?」
「戦を終わらせて、みんなが安心して暮らせるようになる」
 あくまで冷静な弁慶の声に対し、答える将臣の声はやわらかな慈愛に満ちていた。
「権力を取り返して、とか、言ってる連中もいるけどな。そんなのはいらねぇ。ただ、俺はこれ以上、日常が壊れていくのを見たくないし……それに泣く奴らを、もう出したくないんだ」
 やわらげられた声で慈しむようにそう嘯いてから、将臣は表情を引き締めなおす。
「それは、お互い様だろ? 平家を滅ぼして、それで源氏は安泰か? 違うはずだ。和議を結ぶことで、武家は決して朝廷の掌では踊らされないって、そう示せるようになる」
 力強く放たれた言葉をそれぞれが飲み込む沈黙を、切り裂いたのは景時だった。


「でも、それは可能性の話だよね。和議を結ばなくても、源氏は源氏で、平家の失敗を教訓にして、新しい道を探ることもできる」
 将臣の示した未来図を真っ向から塗り潰しにかかりながら、平淡に凪いだ声は続ける。
「三種の神器と帝の奪回は、至上命題だ。だから、その確約は欲しい。けど、それだけじゃ頼朝様を説得なんかできないよ」
 他に旨みがないというならば、これまでどおり、戦いを仕掛けてその上で奪取すればいい。その言はひどく強気なものだったが、焦れに焦れれば後白河院が院宣を持ち出して源氏勢の後衛にまわることは想像に難くない。そうなれば、危ういところで保たれている均衡は一気に崩れる。平家側としては意地でも神器と帝を渡さないための最終手段も講じうるが、そのいとまさえ与えまいと源氏側が猛攻をかけてくるのは必至だ。
 その可能性だけは認められない。なんとか春の法住寺における面会で院との繋ぎを保ち、その成果であろう、史実においては既に発されていた平家追討の院宣を免れているとの認識が将臣にはある。そうはさせるかと、表情を険しくさせながら口を開きかけたところで、しかし、思いもかけなかった声がゆるりと吐き出される。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。