はるかなまほろば
ゆっくりと、息を吐き出しながら景時は表情を消し去った。遠く、深く、何かを腹に据えた様相で、ついに景時はヒノエに向き直る。
「それが、熊野の答なんだね?」
「ああ。熊野別当であるオレが断言する」
「ならば俺は、少しでも源氏にとって有利になるよう、事を運ぶまでだよ」
「では、」
「うん」
ほっと表情を緩めた九郎に、景時はどこか困ったようにはにかむ。
「とりあえず、聞くだけ話を聞いてみようか」
「よし、決まりだね」
軍奉行の承諾にぱんと膝を打ち鳴らし、ヒノエはするりと立ち上がった。
「人選は任せるよ。オレはこれから準備があるから戻るけど、当日は立ち会う。詳しいことは、決まり次第知らせを寄越すから」
「頼むぞ」
「……別に、アンタのためってわけじゃないんだけどね」
過ぎるほど真っ正直に応じる九郎に少しだけ瞳を細め、ぐるりと座を見渡したヒノエは最後にに視点を据えて仄かに微笑む。大丈夫、お前の願いは、ちゃんとアイツらに通じているよ、と。声に出せなかった言伝はしかし、何らかの思いを彼女の胸に届けたのだろう。送られた小さな目礼に滲む安堵の空気を確かに汲み取り、ひらりと手を振ってヒノエは夜道へと足を向けた。
打診から二日で、これまでに類を見なかった前代未聞の密談の席が用立てられた。案内にと寄越された神職の男に導かれ、本宮のさらに奥にある別当の私邸部分にあたるという一角に通された望美達が見たのは、気楽な調子で「よぉ」と片手を挙げる天の青龍と、その隣で端座している銀髪の男という二人組。
「将臣? どうしたんだ、こんなところで」
予想外の相手に予想外の場所で遭遇した驚きは、すぐさま再会の喜びに塗り替えられる。だが、それはごく一部の人間にのみ当てはまること。すぐさま相好を崩して一歩を踏み出す九郎の袖を景時が引き、険しい表情の弁慶が代わって前に進み出る。
ただならぬ雰囲気の友人二人に九郎が疑問を投げかけるよりも、状況を決する口上が弁慶から放たれた。
「まさか、君がそうだとまでは思いませんでしたよ。将臣くん――いや、還内府、平重盛殿」
「なっ!?」
「え? に、兄さん、一体……?」
「あれ? なんだ。じゃあ、俺が平家の人間だってことは、バレバレだったってか?」
その呼称に息を呑む人間をちらとすまなそうに見やり、しかし将臣は動じない。
「それだけ鮮やかな蝶紋を見せられれば、それなりに」
「………よもや、そのままの出で立ちで立ち回っておられたのか?」
「おう。着替えたくさん持ち歩くの、面倒じゃねぇか」
ようやく口を開いた隣の男にあっけらかんと返した将臣は、あからさまに落とされた溜め息に、不満げに「なんだよ」と問い返す。
「いいや。ただ、源氏の総大将殿と、なかなかに気の合われそうなことだと、そう思っただけにございますよ」
重盛兄上、と。過ぎるほど恭しい所作で頭を垂れてから、男は九郎の纏う白の直垂に染め抜かれた笹竜胆紋を眩しげに見つめる。
すぅっと、薄く吊り上げられた唇は、凄みを滲ませる笑みを刻む。
「位置に就かれよ、源氏軍総大将……源九郎義経殿」
言って視線が撫でるのは、将臣の正面に誂えられた円座。上座にある空席は、熊野別当であり、この席を用立てたヒノエのものだろう。源平両軍の面々は、その下に同列に、向き合うよう座が整えられている。
「我らは共に、無為に時間を過ごせるほど、ゆとりのある状況にあるわけではなかろう?」
「同感ですね」
投げかけられた言葉に答えたのは、冷徹な軍師としての表情を貼り付けた弁慶の、どこか張り詰めた声。それでも素直に同意を示し、あらゆる激情を殺すことに手一杯らしい九郎を促して膝を折らせる。それに応じて望美ら一同もそれぞれに腰を下ろしたところで、ようやく部屋の奥からヒノエが顔を覗かせる。
「なんだ、感動の対面は、思いのほかあっさり終わっちゃったわけ?」
「あいにくと。君の性質の悪い期待は、応えるには悪趣味に過ぎましてね」
するりと、流れるような所作で最後の席に腰を下ろしたヒノエに、弁慶は痛烈な批判を忘れない。もっとも、それは前座に過ぎないのだ。この席の本題は、面々の間に走った衝撃以上の威力を、世に広く齎しうるもの。
「まあ、いいや。じゃあとりあえず、はじめようか」
ひどく軽やかな声を皮切りに、今やあらゆる勢力から注目を集める両軍の総大将が、それぞれに表情を引き締めた。
ほんのわずかな沈黙の後、まず口を開いたのは将臣だった。
「ま、こういう場だしな。改めて名乗っとく。知ってるかもしれねぇけど、こっちは平知盛な。で、還内府、平重盛の正体は、俺だ」
ごくあっさりと平家の重鎮だろう知盛を紹介し、浅い会釈を待ってから厳しく深く、覚悟を背負った視線が対座する九郎らをついと見回す。
「その還内府である俺から、源氏軍総大将たる九郎義経と、軍奉行たる景時に、源氏側として和議を受け入れてくれるよう鎌倉に働きかけて欲しいっていうのが、本題だ」
常と変わらぬ鷹揚な、けれど常よりも深く威厳に満ちた声で言い放ち、将臣は口を噤んで相手の反応を待つ。思いがけず張り詰めた空気に呑まれて誰もが固唾を呑む中、ゆっくりと口を開いたのは、源氏方において還内府の対比として見なされることの多い、九郎。
「有川将臣としてのお前に言いたいこと、問いたいことは多々あるが、それはとりあえず置いておこう」
「助かる」
呻くように、けれどはきと断言した九郎に将臣が小さく頭を下げ、そして話の続きを目で促す。
「和議を、と、お前達はそう望むようだが、その際に提示される絶対条件を、本当に呑む気があるのか?」
将臣が本題をいきなり切り出したことに応えるように、九郎もまた回りくどい探り合いなどせず、率直に核心を衝く議題を選んで口にする。
「三種の神器の返還と、帝の帰京。これは、俺達が院から直々に言い含められている事項だ。それが呑めないとなると、和議など成ろうはずもないぞ」
「呑む。帝に関しては身の安全の保障が欲しいし、三種の神器は、ちょっと妥協してもらわなくちゃならねぇところがあるけどな。三つを確実に返還するって点は、絶対に守る」
念を押すように続けた九郎に即座に首肯し、将臣はさらに言葉を重ねる。
「和議が成った暁には、必ず。――平重盛の名にかけて、それは確約する」
言葉を聞いただけではわからないだろうその覚悟に、気づいた平家方の面々はそれぞれにそっと哀切の表情を殺す。
借りることが申し訳ないと、常日頃から苦々しい表情で対峙する“平重盛”の名を自ら名乗ることの、その重みと覚悟は深い。そして、その深みに裏打ちされた言葉は、声は、事情を知らないだろう面々の胸にも強く響く音となって空気を震わせる。
Fin.