朔夜のうさぎは夢を見る

はるかなまほろば

「長く諍いが続いているからかしら。信じることが、とても難しいの」
 とは対照的に、きょとんと目を見開いて首を巡らせた望美に、困ったように苦笑を向けながら朔は続ける。
「どうしても、疑ってしまうわ。本当かしら、って」
「……無理からぬことにございましょう。わたしも、こうして皆様にお会いできなければ、源氏はひたすらに憎い仇でしかありませんでした」
 その声には、虚飾のにおいも感情の気配もなかった。ただ、当たり前の事実を読み上げる声。秋の次には冬があり、日が沈めば夜が来る。そして、はだからといって冬も夜も決して忌むべきものではないのだと、理性のみならず感情でも思い知ったことを告げる。
「今は違うの?」
 やはり、どこかよくわからないという表情を浮かべていた望美がを振り返り、首を傾げる。
「幸いなのか、不幸なのかはわかりませんが」
 それに苦笑を浮かべて頷き返して、は言葉を継ぐ。
「九郎殿の気性は、清しいと思います。景時殿の優しさは、得難いと思います」
 傍近くで過ごすようになってからは、まだ一月もたたない。それでも、過ぎるほどにわかりやすい彼らの個性は、間違いなくの心に響いている。
「わかってはおりました。わたし達が日常を営むように、あなた方にも日常があるのだと」
 まっすぐに瞳に飛び込んでくる望美の視線を受け止める自信がなくて、膝の上で軽く組んだ両手に視線を落としながらは呟く。
「それを目の当たりにして、改めて思い知らされた。そういうことです」


 伏せてしまったの頭をしばらくじっと見つめていた望美は、ふと瞬いて目尻を和ませる。
「守りたい気持ちは、一緒なんだよね」
 ほろりと零れ落ちた声は、慈愛に満ちて、ひどく凪いでいた。巡らされた二対の視線をそれぞれに見つめ返し、望美は微笑む。
「だから、私はあの和議の話が本当になればいいなって思うよ」
 寄る辺は違っても、守りたいものは違っても、そのために刃を交えなくてはならなくても。それでも、その思いが一緒である限り、憂いの種類は同じで、悲しみの種類は同じ。そんなごく単純な事実を、わかっていて、けれど誰もがしがらみを断ち切れないために、負の連鎖から脱却できずにいる。
「そしたら、もう誰も悲しまなくてすむし」
 誰も、失われないもん。胸に沈めた数多の記憶をそっと悼みながら、望美は呟く。


 小さく小さく、口の中で転がした言葉が聞き取れなかったのだろう。不思議そうに見やってくる朔とににこりと笑いかけ、望美は明るく未来を指し示す。
「還内府と、話ができればいいのに」
 同じでいて微妙に違う流れからはじまり、そしてまるで違う流れが見えはじめた。もしかしたら、今度こそ誰もが笑っていられる未来へと辿りつけるのかもしれない。そう思えば声は自然と弾み、その未来を共に願ってくれるだろう敵方の総大将を思えば、誰もが疑心暗鬼にしかなれないこの可能性を現実とすることも決して無理ではない気がしてくる。
「還内府殿と、ですか?」
「うん。だって、還内府が動けば、平家は動くでしょ? それに、九郎さん達にも信じてもらえる」
 だが、その発想は望美の持つ“記憶と経験”という根拠を知らない人間からしてみれば、突飛で無謀なものでしかない。何を言い出すのかと、雄弁に疑問を浮かべながら復唱したに頷き、望美はが『わからないはずのない』理論を展開する。
「確かに、総領の言質がとれれば、話はまるで違うでしょうけど」
 差し向けられた言葉に何を思ったのか、どこか焦りさえ滲ませて黙り込んでしまったに代わり、口を開いたのは朔だった。
「それは無理な話だわ、望美。九郎殿が総大将ながらこんなに身軽に動いていらっしゃるのは、はっきり言って異常なのよ?」
 たしなめるような、宥めるようなその声は、還内府を彼女が知らないから。そして、その朔の意見こそが九郎や弁慶、景時の見解なのだろうと望美は透かしみる。


 もう一歩。もう一歩だけ進めれば、この先の有馬の陣で九郎があんなにも切ない声で慟哭することはなくなる。景時の苦渋も、弁慶の怒りも、敦盛の失望も。そして、将臣の嘆きも取り除かれ、ヒノエの苦悶は晴れるだろうし、譲をこれ以上戦場に追いやらずにすむ。リズヴァーンだって、ようやくあの悲しい繰り返しを終えられる。
 手が届かないわけではない。目の前に、望む未来が待っている。
さんは?」
 今こうして紡ぐ時間が、これまでと違うまったく新しい時間であることを裏付ける存在に、だから望美は希望をかける。
さんは、無理だと思う? 還内府と、話ができるようにするの。ヒノエくんに頼んで間に立ってもらえば、何とかならないかな?」
「……よほど、還内府殿のことを信頼なさっておいでのご様子ですね」
 だが、希望には警戒が返された。ほんのわずか、しかし確実に低められた声は、望美が還内府を旧知のように語ることをあからさまにいぶかしんでいる。
「え? あ、えと、だって! 三草山で、経正さんがすっごく信頼していたみたいだし、だったらいい人かなぁって」
「経正殿のことも、ご存知なのですか?」
「うん。鹿野口で戦わずにお互いに兵を退こうって言ったら、信じてくれたの。平家にも、平和を願っている人がいるんだよね」
「経正殿も、敦盛殿も。荒事には向かぬ、雅事にこそ生きる方と、そううかがっております」
 そっと息を逃して悲しげに視線を伏せ、そしては望美へと向き直る。
「還内府殿は、しがらみにも常識にも囚われぬ御方。それが一門を安住の地へと導く道であると見定められましたなら、いかな要請にも、精一杯に応じてくださいましょう」
さんがそう言うなら、きっと大丈夫だね」
 浮かべられた仄かな微笑の向こうでが何を考えたのかはわからない。それでも、同意を得られたことは事実である。驚きに目を見開く朔の隣で、うんうん、と頷き、望美はこの、見知らぬ運命を進むことを決意する。
「じゃあ、ヒノエくんに頼んでみよう。和議を、実現させるために」

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。