けもののまどろみ
静かに椀の中身を啜り、知盛はひそりと笑む。
「欲しいのとは、また少し違う。ただ、あれの傍は良く眠れる」
返す言葉を見出せないながらも、それこそが知盛の最上級の褒め言葉だと安芸は知っている。だから、もう心のどこかでつけていた諦めに、最後の踏ん切りをつけるのだ。
「今はそれだけでも、いずれ欲しくなるやも知れませぬ。その際、今の選択ゆえにご苦労なさいましょう」
「……そう、だな。それは、そのとおりだが」
苦し紛れとばかりに切り返せば、虚をつかれたように目をしばたかせて安芸の言い分を噛み締め、しかしすぐさま知盛はさらりと嗤う。
「だが、それはそれで……また一興。今の俺がいかに未熟だったか、というだけの話であり、その時の俺の力量が試されるだけの話、だ。構わんさ」
そして、すぅっと瞳が細められる。静謐で、いっそ厳かですらある凄絶な微笑み。
「俺は刃で、あれは俺の鞘になると言った。あれが正しく“鞘”である限り、“刃”たる俺はあれの傍を求むのだろうよ」
ゆえに隣に置き、ゆえに近くにいる。
そう言い切る声は力強く、しかしどこまでも凪いでいた。不穏を思い起こさせる凪ではなく、静穏を思い起こさせる凪。剣呑さか、嘲笑か、あるいは疲弊か。暗い光を灯すばかりだった瞳に、やわらかな色が滲む。
ひとつ息を吐き出し、そして安芸はそっと目を伏せて額づいた。
「承知いたしました。なれば、そのように取り計らいましょう」
移動先の部屋を整え、事の次第と娘の立ち位置を周知し、しかし当人への説明は事実の勧告のみ。さすがに二度目ともなれば手馴れたもの。おおまかに経緯を確認し、二つ返事の了承を得たところで、しかしこればかりは知盛にしか行なえない周知を念押しする。
「老婆心ながら、折りを見て、入道様と二位ノ尼様へのご説明をなされますよう申し上げます」
いくら噂など滅多に弄さぬ家人を揃えているとはいえ、噂話に花を咲かせ、あらゆる情報に精通するのは女房の仕事の一部ともいえる。それこそ知盛の性格が周知されていればこそ、口さがない、興味本位の下世話な質疑を当人に投げかける人間は出ていないようだったが、逆に外堀へのそれとない探りの手があちらこちらから入れられている。
図ったのかそうでないのか、一門中が嘆きの海に沈む今は、耳目を集めることなどないだろう。しかしこうなってしまっては、巷の好奇を集めるのはもはや時間の問題。息子の人となりを熟知していればこそ、はぐらかされるよりもよほど正確と安芸に状況説明を求める平家の棟梁夫妻に、これまでのように口止めをされているのだと返し続けるのもいい加減心苦しい。
「そうだ、な。……面倒なことになる前に、お話し申し上げるとしようか」
のんびりと嘯く知盛に気負った様子はなかったが、既に面倒なことになっているのが現実。きっと、息子の説明だけでは満足できず、詳細に状況を伝えよとの文が遠からず安芸の許に届くだろうことを正確に予測したのは二人とも同じ。楽しげな笑みと諦めの吐息が、同時に部屋に投げ出される。
雇い主だの上司だのの遣り取りやら根回しやらとはかけ離れ、いつもと違う起床からはじまったいつもの日常を過ごすは、いつものごとく己の職分に精を出す。ようやく手習いの類を減らせるようになった最近では、これまでの学習内容を活かし、ずっと保留にしていた繕い物にも手を広げている。
「そういえば、胡蝶さん」
繕い物は、にとって好きな仕事のひとつだった。これまでの経験が正しく活かせるし、応用の幅も広い。簡単な作業からはじめ、衣服の修繕も手がけられるようになった今、目指すは一から衣を仕立てることにある。
数人の女房とおしゃべりに興じる一方、その手元を見つめて技術を盗みながら己の担当分に針を差していたは、ふと楽しげな声で呼びかけられて目を上げた。
「やっぱり、胡蝶さんは知盛様と理無き仲でいらっしゃるの?」
「え?」
興味津々とばかりに身を乗り出し、心持ち声を潜めて問いかけられ、目を見開いたのはのみ。あっという間に目を輝かせ、ずずいと身を寄せてきた他の女房達も口を揃える。
「知盛様がかほどに気にかけていらっしゃるから、きっと何か特別な方とは思っていましたけど」
「常に菊花香を纏っていらっしゃるのも、知盛様にいただいてからですしね」
「それに、局を東の対へ移されるとか?」
締めくくりに話を切り出した女房が意味ありげに口の端を吊り上げれば、大袈裟なほどの歓声が上がる。
わいのわいのと手を動かすことも忘れて盛り上がる周囲に反して、は理解が追いつかないため手が動かない。
「あの、失礼ですけど、“わりない”というのはどういう意味なのでしょう?」
「まあ!」
小首を傾げて置き去りにされたその躓きを問い質せば、それこそ大袈裟な、しかし純然たる驚きの声が重なる。
「失礼を。そういえば、胡蝶さんは異国のご出自でしたわね」
こほん、と。咳払いをして居住まいを正した女房の一人が、神妙な表情を取り繕って口を開く。
「そうですわね。あけすけに申し上げてしまえば……恋仲、と」
「こい……恋ッ!?」
「まあ、照れていらっしゃるの?」
「大丈夫ですわ。ご案じにならなくとも、私たちには知盛様を殿方としてお慕いする心積もりはありませんもの」
「ですが、それならそうと、先に仰ってくださればよろしいのに。いつかのあれも、そういうご心配だったのでしょう?」
「本当に、胡蝶さんはおかわいらしくていらっしゃいますのね」
思わず復唱したその勢いで絶叫したを置き去りに、話はとんとん拍子に進められていく。
Fin.