けもののまどろみ
さらりと口に出された単語に、やはりというか何というか、はきょとと目をしばたかせるだけだった。いよいよもってこめかみが痛む安芸に対し、知盛はますます笑いを深める。意味がまるでわかっていないをからかい、その反応を楽しみにしているからなのだろうが、さすがに今回ばかりは見過ごすわけにいかない。
「胡蝶さん、お下がりなさい」
「え? ですが……」
「私は若様とお話し合いをせねばなりません。結論は後よりお伝えしましょう。ゆえ、今は下がってお勤めにお戻りなさい」
言い切られた指示にどうすべきかと主を見やったは、表情を変えないまま「そうだな。下がれ」と復唱した知盛に、大人しく頭を下げてから裾を払って腰を上げる。
分をわきまえ、己が職分に矜持をもって勤めるのは知盛が邸に住まうすべてのものに対して要求する最低限の要素。膳を手に摺り足で進む背中は凛と揺るぎ無く、随分と職務に馴染んできたことが察せられる。興味深かったのはもちろんのこと、素養があると踏んだのも引き取ったきっかけのひとつだったのだが、しみじみ、いい拾い物をしたものだと知盛は己の心眼を自讃する。
衣擦れの音が完全に消え去るのを待ってから、改めて口を開いた安芸はひどく静かな表情を浮かべていた。詰るのではなく、詰問するのではなく、ただ明らかにするための問答。
「どこまで本気でおっしゃっておいでですか」
「俺は、空言なぞ言わぬが?」
「お答えくださいませ」
余裕と呼ぶのか読めないというのか。何を言っても変わらなかった薄ら笑いがふと引き締められれば、そこにはただ底知れぬ鋭さが残される。
一歩も退かぬと示した安芸に、与えられたのは厳かな声。深く、穏やかでありながら揺らぐことは決してないと知れる、巌の音。
「――本気さ。俺は、あれを永劫に逃したくない」
「胡蝶さんには、後ろ盾がありません。せめて西の対の中で移動というのではなりませぬか」
「だからこそ、北の対を避けてやっただろう?」
「北面に置かれることの意味もわかっていない娘です。知らせず置けば、いらぬ誤解とやっかみを生み、何より胡蝶さんの不審を招きましょう」
「俺はそんな無能な家人を置いているつもりはないし、あれは存外頭が切れる。すぐにも意味を知ろうよ」
冷ややかというにはあまりにも熱の篭もった、しかし刃のような言の葉の応酬。冷厳なる緊張感を漂わせた遣り取りは、膳から下ろされて残されていた椀の茶を啜る音で一旦休止符を打たれる。
「なあ、安芸。俺は、随分とよくやっているとは思わんか?」
主が舌を湿らすのを静かに待っていた安芸は、ふと落とされた呟きに沈黙を返す。
「求められることには、余すことなく応えている。俺は存分に、“平知盛”を世に供している。違うか?」
「それが、血の定めなれば」
「そう、そのとおり。俺はこの血から逃れられず、ゆえにこの宿業を負っている」
静かな相槌にすかさず言葉を上載せ、御簾越しに庭へと投げられていた深紫がひたと安芸を見据える。
安芸は知盛が生まれる前から、知盛のことを知っている。清盛の正室たる時子に仕え、乳母と共にその養育を預かり、長じて後は騒ぎと面倒を嫌う当人によってお付きの女房として召抱えられた。だからこそ知っている苦悩があり、側面があり、遠慮なく叱り飛ばすという特異な立場を手にも入れた。だというのに、この凪いだ湖面のような瞳を波立たせる場にはついぞなりえなかったというのが、安芸の密かな悔いでもある。
昔から、良くできた子供だった。
才に溢れ、努力することを知り、驕ることなく領分をわきまえた、恐ろしく子供らしからぬこども。立場ゆえに致し方なし、むしろ養育係としては自慢の令息は、早々に己の価値が“知盛”としての中身ではなく“平知盛”という器にあることを見抜き、そのようにしか振舞わなくなってしまった。
例外的に身を入れたのは、武の才を磨くこと。誰もが“平清盛の四男”“正室腹の嫡流”という色眼鏡を通してしか接さない中、己が内に克服する相手を求める武芸の稽古は、知盛にとって数少ない真実だったのだろう。腕を上げ、骨のある相手と手合わせをする時に耀くだけだった瞳が、珍しく愉しげに和んでいた朝のことを、安芸はふと思い出す。
常のごとくどこぞの姫君の許からの朝帰りかと思いきや、山奥にて妙なる花の蕾を見つけたのだと上機嫌に笑っていた。そのまま気紛れに、一夜限りで花を次々に移ろう主にしては珍しいことに、幾度か足を運んでいたようだったが、移り香のひとつもない。それこそどんな気紛れかと、問い質すこともできないまま日々が過ぎ、疑問さえ日常と化したある日、唐突に「ひとり、娘を引き取りたい」と言い渡された驚愕は、後にも先にも並ぶものがないと断言できる。
「酔狂と、戯れと。知ればそう罵るやからも多かろう。だが、それでも構わん。安芸、お前ならばわかるだろう?」
家も立場も明かすことなかれと、事前の準備は過ぎるほどに入念だった。何を無駄なことをと、思ったのも束の間、なるほど娘は“平知盛”を知らずに“知盛”を知っていた。主の気紛れに従い、あるいは付き合うつもりの家人達に入り混じり、その真意を垣間見た安芸はやがてきたる破綻の瞬間を危惧して密かに憂えたものだ。
呼びかけは穏やか。それは、確信ゆえの穏やかさ。知盛は、安芸が知盛の気紛れの向こうに垣間見ているものに気づいた上で、気づいていない者との調整役を無言で押し付ける。
「あれは、俺の歪みを緩和する。俺は、あれの隣でならば安らげる」
「黙認せよと、仰せですか」
「俺が“俺”であれる場を得ることを、誰よりも欲していた数少なきうちの一人は、お前だと思っていたが」
低い呻きには、静穏なる述懐。無論、安芸は知っている。主によるこのとんでもないわがままが己の願いに重なることも、跳ね除けるだけの明確な理由を繰り出せないことも。
Fin.