朔夜のうさぎは夢を見る

けもののまどろみ

 必死に呼吸を整え、声が掠れることもどもることも気にせず、とにかくは言葉を綴る。
「何がどうして、そのようなお話になっているんです?」
「あら、だって胡蝶さん、今朝は知盛様の曹司から戻っていらしたでしょう?」
 慌てて根拠を問えば、なんとも言い逃れのできない状況証拠が突きつけられる。当人同士がどう思っていようと、周囲から見れば立派な既成事実。しまった、とか、やっぱり、とか。胸中を渦巻く思いは様々にあったが、安易な否定をしてもいいのかどうかさえ、には判断がつけられない。
 特に想い人がいるわけではない身空としては誤解を放置することにも否やはないのだが、対する知盛がどう考えているのかはまるでわからない。確かに手許に置くだの何だの、あれは恋人宣言と取れないこともないが、要求されていることも応えたいことも、もっと根源的な、深い次元の内容だと知っている。
 どうしたものかと必死に考えを巡らせる様子は、しかし、女房達の目には言い訳を必死に考える微笑ましい姿と映ったらしい。くすくすとさざめく笑い声に軽い頭痛すら覚えるところに、もっと艶やかな、ひどく愉しげな低い笑声が加わる。
「花のさんざめく様は麗しいが、な。……あまり、虐めないではいただけまいか?」
 その蝶を、逃がすつもりはないのでね。
 御簾越しにゆるりとかけられたのは、邸の主の声だった。傾きはじめた日の光を背に負い、佇むその人影は参内帰りなのか、珍しく着崩されていない衣冠束帯姿。


 さっと姿勢を正し、ゆるりと額づいての帰邸を出迎える口上に慌てて追従したは、相変わらずの笑い混じりの声に呼ばれて顔を上げる。
「先日預けた狩衣は仕上がったか?」
「はい。ちょうど先ほど」
「持って来い」
 命じられた内容に小さく頷き、他の女房達にいとまを告げてから腰を上げたは、御簾を潜った先で待ち構えていた実に愉しげに笑う主に思わず小さく目を見開く。からかわれることは珍しくもないが、こうも純粋に愉しげな様子は滅多に見られない。何かよほど楽しいことでもあったのかと、無意識に小首を傾げるのと、肩を引かれてその胸元に倒れこむのは同時。
 御簾内から上がった控えめな歓声は、それでも存分に興味と期待を伝える。どういうつもりかと体を起こしながら見上げれば、気にした様子もなく知盛は腕の中の髪を一筋撫でおろし、さらりとのたまう。
「着替えを一式揃えて、白湯も用意しておけ」
「……承知いたしました」
 結局何がしたかったのかはよくわからなかったが、少なくとも御簾の向こうの女房達に見せることで何がしかを伝えたかったのだろうことは理解した。後から当人に意味を問えばいいかと考え直し、は素直に踵を返す。
 小さな足音が柱の影に消えるのを見送り、おもむろに知盛は視線を巡らせる。
「あれは、まだ蕾。俺とて、蕾をいたずらに散らす趣味はない……。諭していただけるのはありがたいが、どうぞ、お手柔らかに」
「これは、無粋なことをいたしました」
 やわらに揺れる声は、実に珍しく気安さ一色に塗り篭められていた。それこそ物珍しさに目を見開いた女房達は、くすりと笑って老婆心を詫びる。


 自室に戻り、くつろいだ衣装に着替えたところで、知盛は几帳の向こうで渡した装束を片付けているへと呼びかける。
「もう移ったか?」
「いえ、まだ」
 朝方、知盛の部屋から締め出されてしばらくして、は諦めと憐れみと安堵を複雑に混ぜ合わせた表情の安芸から、改めて部屋の移動を言い渡されていた。
 どうやらあの後、手出しをするためではなく枕にするために近くに置いておきたい旨を重ねて説明されたらしい。それはそれで、なけなしの女としての矜持にひっかかりを覚えないでもなかったが、いつにない自発的な目覚めを目の当たりにさせられた身としては、安眠の助けになるという理由を無碍にできない。
「なんだ。今になって、怖気づいたか」
「まだ今日の仕事が終わらないだけです」
 ゆるりと几帳の影から歩み出て仄かに嗤う主に、呆れ交じりの溜め息を返す。わかりにくさに誤解されやすい言動ばかりが伴うが、これが知盛流の言葉遊び。まったく、良くも悪くも本当に相手を選ぶ人だと、は目の下に小さく皺を刻む。


 畳み終えた装束を一通り唐櫃に収めたところで振り返れば、気楽な調子で脇息にもたれ、清水を飲んでいた知盛が実に満足そうに目を細めている。
「場所は、決めたか?」
「お部屋に近い場所をご希望とのこと。北面の廂のどちらかを、と考えています」
「ならば、角の、妻戸の脇にしろよ」
 どうせ掃除は後回し。一通りの仕事が片付いてから自分でやると申し出ているためまだ確定していなかったのだが、なぜか知盛は候補地の中では一番部屋から遠い場所を指定する。やけに細かい指示に疑問を覚えて見返せば、穏やかに何かを思う眼差しが庭へと向けられる。
「あそこは、濡れ縁から見る遣水が、いい肴になる」
「そんなに素敵な場所を、お許しいただけるのですか?」
「同じ忍ぶなら、より趣深い場所の方が良かろう?」
 夏も涼しいしな。
 くすくすと笑いながら付け足されたその言葉こそが本音なのだろうが、いずれにせよ、季節を問わず通い倒すと宣言されたのと同じ。艶めいた意味はないと知っているが、流し目に、濡れる吐息に、滲む色香がざわざわと胸に迫る。意図して息を細く長く吐き出すことで跳ねる鼓動を宥め、は提案を素直に受け入れる。
「承知しました。階が近ければ、庭にも下りやすいですしね」
 鍛錬にも便利だと言外ににおわせれば、正確に読み取った知盛も雰囲気を変える。
「ならば、親愛なる枕殿への見返りに、もっと手合わせを増やして差し上げよう」
「……恩に着ますと、申し上げるべきでしょうか」
「いや? いずれにせよ、決めたことだ」
 提案の形をとった命令は、しかしとしても願ったりといったところ。必要性に駆られているわけではないが、武芸の腕を磨くことで被る損害はないだろう。何より、少しでもいいから自分に付加価値をつけることでわずかにでも居場所を確実にしたいという渇望は、今でも満たされない。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。