朔夜のうさぎは夢を見る

けもののまどろみ

 翌朝、珍しくさしたる抵抗もなく知盛は自ら起床した。いまだ明けやらぬ空を見上げ、世の習いに従って眠る娘を置いて寝殿に戻り、いつもと同じく朝の仕度を用立てにやってきたにはいつもの調子で「荷物を纏めておけ」とのたまう。
「任を解かれる、ということでしょうか?」
「お前は、昨日の今日でさっそく誓いを破るのか?」
 思わず動きを止めて問い返したに呆れ交じりの溜め息をこぼし、ついでに廂をやってきた別の気配が息を呑む気配を拾いながら、知盛はちらりと笑う。
「昨夜はよく眠れた。お前は、心地良い」
「それは良かったです」
 言われてみれば、確かにすっきりとした顔をしているようにも見える。詳しいことはわからないながらも多忙であることは知っていたため、素直に安堵の言葉を返しただったが、知盛の発想はその遥か上空を飛んでいる。
「だから、今日から局を移せ」
「……その結論に至るまでの過程を、ぜひともご説明いただきたく存じます」
 畳み終えた寝衣を片付けようと浮かしかけていた腰を下ろしなおし、姿勢を正して向かい合う。真面目な表情を取り繕っている知盛だったが、瞳の奥が笑みに揺れることを隠そうともしていない。またからかわれているのだと、わかってはいても、今のには反撃に出るだけの手札が圧倒的に不足している。
「お前の局は、西の対だろう?」
「はい」
「移動が、面倒だ」
「……は?」
 一言目は確認。二言目は断言。もっとも、にはまだ知盛の言わんとするところが掴み切れない。


 そも、この気紛れにして気難しい主人の許でつつがなく仕えるため、部屋の配置ひとつにもいちいち意味があるのだ。他意はなく、しかし何かと常識に欠けるの部屋が西の対の南端に設けられているのは、事前に配慮を重ねた安芸の采配による理に適ったこと。そして、はその部屋の配置とそこに篭められた意味を、いまいち把握しきれていない。
「お言葉ですが、これまでも別段、不自由などしてはおりませんが」
「不便になったんだ」
 そっと、このままでも十分だという感謝の意を伝えたつもりだったが、それこそ至極面倒そうに知盛は言い切る。そして、それこそが決定打の一言。
「もしかして、昨夜のあれの習慣化をご所望ですか?」
 確信を押し殺して問いかければ、にやりと吊り上げられた不敵な笑みが返される。
「お前以上の枕を、俺は他に知らん」
 瞬間、正面の廂から響いた何やら物を取り落とす音は、大慌てで部屋に飛び込んできた安芸による「お二人とも、そこになおられませ!」という一喝を皮切りとした尋問と説教に取って代わられたのだった。


 安芸は、知盛の邸において要とも呼べる存在である。知盛が幼い時分から仕えており、気紛れで気難しい主の扱いを誰よりも心得ている重鎮。だからこその女房頭であるし、知盛付きの女房が務まる。それは、知盛自身が一目置いて接することからも存分に計り知れる安芸という存在の重さである。
 だが、最近その立ち位置が少し変化してきたのではなかろうか、というのが、安芸本人を含めた知盛邸に仕えるほぼ全員の意見でもある。
「事情は、大変よく理解できました」
 朝からの参内の予定がないのをいいことに、食事の時間をはさみ、他の誰も真似することのできない“主を叱り飛ばす”という偉業をやってのけた安芸は、あまりにも的確かつあけすけに与えられた状況説明に深々と溜め息をついてこめかみを押さえた。
 自ら拾ってきたこの型破りで常識を知らない娘を、知盛がいたく気に入っているのは初めからよくわかっていた。位階を上がるごとに何かと鬱積が溜まっているらしいことも見て取れていたし、その憂さ晴らしとばかりに夜遊びがひどくなっているのも聞き知っていた。それが少しでも軽減されるなら、と、あれこれ与えられた娘の待遇に関する要求を呑みはしたのだが、事態はどうやら、安芸が想定していたのと微妙に違う方向に転がりはじめているらしい。
「ですが、もう日も高うございます。このような刻限に、かような内容のお話は慎まれますようお願い申し上げます」
「ああ……。気をつけると、しよう」
 ひとまずと考えて呈した苦言に、知盛は殊勝な表情さえ取り繕わず、愉悦に揺れる声で信用ならない答をのたまうだけだ。


 溜め息をもうひとつつき、安芸は知盛の真意を推測する。
 にまにまと愉しげに笑うその心は構わない。きっと、彼は事態が安芸の想定どおりの方向に転がろうとしていて、道がわずかにずれていることさえ楽しんでこの状況に身を浸している。何より、その気になればこの番狂わせの原因たる娘に状況を『思い知らせる』ことなど造作もないはず。あえてそれをしないのは、こうした安芸の介入さえも見越した上で楽しむつもりだからだろう。
 問題は、その楽しみが本当に事態を『楽しむ』だけなのか、それともその向こうを『欲した』上で過程を楽しむつもりなのかの見極めにある。邸内でくらい面倒ごとはごめんだと、自邸の女房には手出しをしていなかった知盛だが、いつ気紛れを起こすか知れないのもまた知盛なのだ。
 面倒がる思いが勝つか、好奇心が勝つか。
 既に、安芸の関心は知盛がに手出しをし、そして捨て去った後のことにある。後ろ盾のある身ならば宿下がりなり主を変えることなりが可能だろうが、彼女はあいにく天涯孤独と聞いている。面倒をみるうちに情が移ってきたこの気さくで気のいい娘を、いたずらに泣かせるのは本意ではないのだ。
「して、若様は、胡蝶さんをいったいどちらに移されるおつもりですか?」
 元々人の少ない知盛の邸は、使っていない部屋に溢れている。こと、知盛自身の「寝屋の近くに人の気配があると眠れない」という主張に家人の少なさが加わり、寝殿とは別に曹司の設けられている東の対は、安芸をはじめとした元は時子付きだった古参の女房が住まうのみである。一般の女房達の部屋が与えられているのは西の対。その中での移動では、知盛の主張した「移動が面倒だ」という要求に応えることができないだろう。不穏な予感に目尻がひりつくのを感じながら見据える先で、主は実に楽しげに笑う。
「無論、東の対に決まっている」
 北面が空いていたろう? 俺は北の対でも構わんのだが、まあ、あそこが一番面倒じゃないからな。
 それは予想通りの答であると同時に、確かに最も理にかなった解決策。そして、相当に厄介な事態を引き起こす問題発言だった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。