けもののまどろみ
杯ごと床に置かれていた手が持ち上がり、の手を包んでいた手が床に落ちる。残っていた酒を飲み干し、そして知盛は杯を置き去りに音もなく立ち上がった。
「おしまいにしますか? でしたら、片付けて参りますけど」
「そんなもの、後でいいだろう?」
知盛は背が高い。同じ位置に立っていても常に見上げねばならないのだから、座すが立つ知盛を見るには、首を相当に仰のける必要がある。そうして今宵も振り仰ぐ先には、月を背に立つ佳人。ついと持ち上げられた口の端は妖艶。すいと細められた双眸は凄艶。美しい人だと、場違いにもはその美貌に感嘆する。
元々顔立ちの非常に整った、鋭い気配さえ美しい人だとは思っていたが、今はそこにさらなる艶が加わっている。酔いのせいか、月光のせいか。漂っていたどことない緊迫と装いの色が抜け、それこそ剥き出しの刃のように、彼という存在が抜き身で光を放っている錯覚に陥る。
「ここに、いろよ」
にぃ、と。愉しそうに、満足そうに、笑う瞳はどこかいたずらげに輝いている。あるいは、期待にか。言われた意味を考え、言葉と表情の裏を考え、状況と責務と何より相手に対して何を最優先すべきかを様々に吟味した結果、は溜め息をひとつ。
「……褥を誂えますので、お待ちください」
言いながらもまた立ち上がり、酒器を簡単にまとめて部屋の隅へと片付ける。その足で寝具を整えたところに、あろうことか格子を手ずから片付け、羽織っていた衣を衣桁にかけた知盛が喉の奥で笑いを転がしながらやってくる。
「夜伽を命ぜられ、ここまで淡白な女は初めて見る」
「夜伽は夜伽でも、警護か、せいぜい枕役といったところですもの」
「俺は男で、お前は女だ。しかも夜更けに、このような姿で」
「常識に照らし合わせれば、確かにそうなのでしょう。ですが、わたしも女だからこそ、知盛殿にその気があるかないかぐらいは察せます」
言ってようやく作業を終えたは振り返り、膝をついて髪をもてあそんでいる主に「どうぞ」と告げる。
「わたしがいて、眠りが浅くなるようならば戻ります」
「それは、試してみねばわからんさ」
瞳の奥で揺らめいた光は、確かに満足を告げていた。どうやら与えられた言葉の裏を読み違えていなかったようだと確信して安堵の息をつくのも束の間、言葉の綾のつもりだった言質がさっそく仇となる。思わず息を詰め、反射的に肘と膝を突き出して反撃に転じれば、やすやすとそれを封じた男の愉悦を堪えかねたといわんばかりの笑声が低く響く。
「……いらぬ勘違いを招きかねませんが?」
「言いたいやつには、言わせておけ」
「………妙な方向に煽ったりなされば、安芸殿に言いつけますからね」
「それは恐い」
常の緩やかな動作が嘘のような俊敏さで、囚われたのは腕の中。共に褥に引きずり倒され、抵抗をやめれば温石よろしく抱え込まれる。手の早いことに、気づけば纏っていた小袿の袖を抜かれて上掛けに重ねられている。
「枕と言ったのは、お前だ」
なるほど、喩えるならば抱き枕が相応か。この世界にはない概念だと考えていたが、揶揄の内容は正しく伝わっていたのだろう。何より、腰を抱く腕は手馴れている。浮名を派手に流していると邸の女房達に太鼓判を捺されていたこの男にとって、誰かを枕にすることはさほど珍しくもないということなのだろう。
いずれにせよ、それこそこんな夜更けにこんな姿で騒ぐわけにはいかないし、知盛はの主。男尊女卑と身分階級がいやというほど浸透しているこの時代に、セクハラも強姦もあったものではないだろう。大体、知盛にはその気がなくて、それをは承知している。互いの認識としても、別段何の問題もない合意の上での行為。
もぞもぞと身じろいで寝やすい場所を探していたのか。ようやく落ち着いた主に、はふと思い立った提案を舌に載せる。
「子守唄でも歌いましょうか?」
とはいえ、それにふさわしいものを知っているというわけではない。ただ、己が歌う声を「素敵だね」と褒め、歌を求めてくれる人々がいた。祈りを、願いを、思いを託す手段として、好んで学び、朗じていた。それをふと思い出したのだ。
「こもりうた?」
「言葉のとおりですけど、もう少し意味は広いです。眠りを導き、安らげるために奏じる楽――旋律に言葉を載せるそれを、わたしの世界では歌と呼んでいました」
「言の葉を、奏でるのか」
「そうなりますね」
声を潜め、褥の中で身を寄せ合っている空気は穏やかに甘やか。色艶ではなく、親愛によるやさしい甘やかさ。
「異国の言葉ですから、ただの音に聞こえましょう。耳障りならばすぐにやめます」
「どういった心変わりだ?」
あんなにも抵抗を示したくせに。そう、笑い混じりにからかわれれば返す言葉もない。小さく「申し訳ありませんでした」と呟けば、今さらだと笑いが深まる。
反射的な行動だったといえ、仮にも主に攻撃を仕掛けるなど、それこその教育係たる安芸に知られれば厳しいお叱りを受けるだろう。もっとも、それだけですむのは知盛がそういうの常識から外れた一面を面白がり、それを見越してのちょっかいを楽しんでいるからに他ならない。
「眠りを安らげる、ね」
ふと、笑いを収めた声が、先の説明をなぞりなおした。ただの確認というには深く、哀愁を漂わせる音。何かに思いを馳せる様子に、けれどは問いを向けたりはしない。滲む気配の違和感は、今夜の知盛にずっと付き纏って消えない翳と同じにおいだった。かなしくて切なくて、苦しい。それは奈落にも似た深淵。
「夜伽の代わりには、このぐらいしか供せませんから」
「……頼むとするか」
だから、なにげなさを装って言葉を返す。篭めた思惑が透けたのか、向き合う形で抱き込まれ、身長差があるため頭頂部から落ちてきた声には微かな苦笑が漂っていた。もっとも、互いに表情は見えない。それでも、知盛が瞼を閉ざしながらそっと唇を緩めた気配が掴めた気がして、もまたそっと微笑んでゆっくりと息を吸う。
そして、声が広がる。寝殿造りの屋敷にはあまりにも不釣合いなはずのそれは、しかし夜の闇にこそ相応しい。聞き慣れない言の葉は、ただそのやわらかな響きばかりが印象に残り、四肢に浸透する。音に包まれ、ぬくもりを抱き込み、知盛は久方ぶりに沈むように意識が遠のいていくのを知覚する。
穏やかに深い呼吸が頭頂で髪を揺らすのを感じながら、はひたすらに音を重ね続ける。包み込むぬくもりと規則正しい鼓動に誘われた眠気が限界に達するまで、ひたすらに。この世界にいるかどうかもわからない、信じてもいなかった神にあまねく安息を願う祈願文を、紡ぎ続けた。
Fin.