けもののまどろみ
しばらく何かを探るように瞳の奥を覗き込んでから、やはり唐突に知盛は屈めていた上体を元に戻した。ついでに拘束していた両手首も解放し、転がっていた杯を拾って酒を要求する。
ゆるゆると、ぎこちなさの残る動きで酒を注いだを見やり、天に目を向けて一口舐めてから知盛は繰り返す。
「難儀なことだ」
「……あなたにだけは、言われたくありません」
まだ中身が残っていたことを思い出した己の杯を引き寄せ、は一気に呷る。いたずらに喉が灼かれ、声が細く千切れるのがどこか他人事のよう。それでも、それこそ酒でも飲まねばやっていられない気分になったのだ。
「無様だと思われるなら、詰ればよろしいでしょう?」
八つ当たりと自覚して睨んだ先には、面白そうにまばたく無邪気な双眸。あどけないと表すには深く、老獪と表すには不器用。元からいびつだった表情が、望郷の念に歪むのを自覚する。
「中途半端な同情は、屈辱以外のなにものでもありません」
「そう思うなら、隠すなり蹴散らすなりすればいい」
「隠しています」
「俺には、剥き出しに見えるぜ?」
「それは――!」
それはだって、どうしようもないこと。だって、あなたはこうして、わたしが必死に目を逸らしている一番弱い部分を見つけ出しては、抉る一方で包み込み、甘やかす。その気紛れに見せかけたぬくもりが、帰れないと諦めた、帰りたかったあの場所を、あの人達を思い起こさせる。
つい口をつきそうになった悲鳴をすんでのところで飲み下し、は唇を噛み締める。訴えても詮無いこと、訴えるべきではないこと。それこそ、あまりに無様な八つ当たり。はそれを己に許さない。
望郷と郷愁の向こうに、もはや懐かしいとさえ感じる情景がよぎる。何ひとつ似たところのない二つの世界。けれど、こうして見守り、包んでくれる存在に恵まれるという、根源を同じところに持つ世界。だからこそ重ね見ることを止めることができなくて、だからこそ視えてしまうものがある。
ふと黙り込んだに不審を覚えたのか興味を覚えたのか、小さく首をかしげて知盛は低く「どうした」と問う。
「続きはないのか?」
声は仄かな笑みを滲ませて揺れていたが、視えてしまえば何のことはない。逡巡するいとまさえなく、は琴線に触れた真理をなぞる。
「かなしいひと」
「……なに?」
「わたしは、あなたを見ています。あなたを“あなた”として見ていればこそ、あなたの向こう側に“あなたではありえない誰か”が透ける……でも、それは“あなた”を見ている証でもあるのに」
似ていると感じるからこそ、まるで違うと知れる。が、の知る限りの人々が、かつての世界で苦しんでいた葛藤を持たないこの男は、の知り得ない葛藤に人知れずもがいている。
「あなたがわたしの縛られていたものを知らないように、わたしもあなたの縛られるものは知りません。知ったところで、今さら見誤るとも思えませんけど」
じっと、言葉を返さずにただ真摯な視線を向けるだけの知盛に、今度はが指を伸べる。
揶揄ではなく、譫言ではなく、あれは確かに懇願。かほどに悲痛な声を上げねばならないほど、彼は一体、何に追い詰められているのか。研ぎ澄まされて、休まることを忘れて、ひたすらに磨き上げられたその在り方はまるで刃。ある意味この邸に隔離されているには、邸の外での知盛を知る術はないに等しい。だから、なぜ彼がこれほどまでにぴりぴりと常に張り詰めているのか、その理由はわからない。ただ、彼が“刃”として在ることを己に定義したことを、直感する。
体温が伝わるほど近く、しかし決して触れずに頬のあたりをさまよわせた指を、問うようにその場に留める。
「許されるなら、鞘になりたいと思います。あなたがわたしを見透かすように、わたしはあなたを見失いません。だから、わたしに預けてはみませんか?」
それを望み、見込んで私を拾ったのでしょう?
呟きに近い言葉を継ぎ足せば、きょとと目を見開き、そして自嘲の色濃いやわらかな吐息が落とされる。
「……お見通し、か」
「思い知っただけです。今宵の知盛殿は、随分と無防備でいらっしゃいますから」
「俺も、やきが回ったものだな」
浮いたままだった手の甲を、杯を持つのとは反対の手が包み込み、頬を寄せて瞼を伏せる。いつになく気弱な側面を見せるのは、この空気の延長だからか、の提案を受け入れたからか。少なくとも、あからさまにくつろげられた空気から漏れ出す疲れの深さを察せば、表情が曇るのは止められない。
「知盛殿? もうお休みに――」
「見失わぬ、と」
自覚の有無はともかく、彼は疲れ切っている。悟ってしまえば次にの取るべき行動は、女房としてもそうでなくとも同じ。無理をさせるべきではないと、問いかけを装った誘いは、ふと落とされた真摯な声に遮られる。
伏せられていた視線がついと持ち上げられ、の双眸に据えられる。その、鋭く深く清廉な光は、遮られることをよしとせずにの内奥深くを抉る。
「その言の葉、真実か」
裏切りは許さない。偽りは許さない。虚飾による偽善を示すぐらいなら、真理による憎悪を。求めるものがあまりにもまっすぐだからこそ、きっと、多くの人間が正面から見返すことを恐れ、逃げ出す瞳がじっとの内奥を刺す。
なんとかなしいひとなのだろう。音にせず思いをなぞりなおして、はもはや還れない世界を思い出す。
こんなに苦しい瞳を、知らない。真摯で、深くて、奈落よりも昏い光を飲み込んだ瞳。
あの世界は、優しくて自由だった。時に殻を被る必要があり、時に自分を偽る必要もあったが、そのすべてを脱ぎ去れる自由が、どこかしらに存在していた。そうしてすべてを脱ぎ去った己を見守り、そっと包んでくれる人が存在していた。そうやって生きていられた。
かつてはわからずにいたが、少なくとも、自分の知る限りの範囲ではそうであり、それが本当に恵まれた境遇だったのだと、は思い知った。だが、きっと知盛は違うのだ。
「刃は鞘がなくとも存在を失いませんが、鞘は刃がなくば意義を失います」
そしてなぞるのは、あの日の絶望。世界から切り捨てられる己への、言いようもない慟哭。だから、の言葉は知盛に対して真実であると同時に、自身にとっての渇仰でもある。
「わたしは、“あなた”の鞘となりたいと願いました。だから、“あなた”という刃を見失えば、それはわたし自身の意義を見失うことにも繋がります」
「……随分と、身勝手な言い分だが?」
「だからこそ、真実味がありましょう。ヒトは、己の欲望にこそ忠実なモノ。そして、わたしの欲望は、あなたへの誓いになります」
「真理……だな」
言葉を絡めた吐息は、随分とやわらかかった。鋭いばかりだった視線がふとやわらぎ、宿る光が穏やかに滲む。
Fin.