朔夜のうさぎは夢を見る

けもののまどろみ

 言葉に甘えるというわけではなかったが、鍛錬をしたままの身で侍るのはよろしくないことだろう。それに、堅苦しいのは嫌いだとまで言われている。悩みはしたが、言われたままに湯を使って汗を拭った後、小袖と袴に小袿を羽織っただけという実に砕けた装いで、は渡殿を渡る。
「失礼いたします」
「……来たか」
 寝殿とは別に北廂に設けられた知盛の私室を訪ねれば、御簾も格子も開け放ち、実に気楽な様子で柱にもたれていた横顔が巡らされる。やはり開け放たれたままだった襖を酒器を持って潜り、視線で示されるまま隣に膝を落とせばついと腕が差し伸べられる。
「杯は持ってきたか?」
「ここに」
「では、飲むか」
 差し出し、取り上げられた相手の杯に瓶子を傾けてやれば、満たされるのを待って逆に瓶子を奪われる。からかう瞳が示すのは、杯を取って酒を受けろということだろう。
 主人と女房という立場をどうしてくれるのだと思いはしたが、こうと決めたこの男が意固地であることは承知の上。装束からして今さらか、とか、女房として召されたわけではないのだから、とか。内心で言い訳をあれこれ並べ立てながら、は素直に杯を差し出す。


 知盛が含むのを待ってからそっと舐めた酒は、仄甘くそして喉に熱かった。穀物の芳醇な香りが口腔に蟠っている。美味い不味いの判別はつかないが、こんなものだろうという妙な納得があった。
 もっとも、率先して飲む気にはならない。中身の残った杯を高坏に載せて脇によけ、しばらくは黙々と杯を空ける知盛に酒を注ぐことに集中していただったが、まるで水を飲むかのような様子から一転、ふいに手の止まった主に疑問と不審の視線を投げ掛ける。
「……酒精も、お前の視界を塗り替えるには足りぬか」
 ぽつりと与えられたのは、意味の取れない不可思議な独白。そういえば、顔を見るのは先ほどの庭での遣り取りで実に五日ぶりのことだった。安芸をはじめ、古参の女房達も含めておおわらわの様子だったため詳しいことは聞いていないが、親族に不幸があったと耳にした。それにまつわる諸事に出向いていたのだろうが、結局何も聞かされていないには、何も言うことができない。ただ、今宵の知盛が普段と何かが違うことだけはわかる。
 探るように、伺うように。違和感の源泉を見極めるべく、は双眸を細める。
「あまり、得意ではないようです。醜態を晒すのは憚られますので」
「構わんと言ったが?」
「わたしの女としての沽券にかかわります」
 からかう声は常の温もりを帯びているのに、纏う空気がすべてを裏切る。憂え、憐れみ、苛立つ深紫は底がみえない。
「いかがなさいました? いったい何に、かくも苛立っておいでなのです」
「苛立つ?」
「苛立っておいででしょう? 焦れて、堪え切れなくなったご様子とお見受けしますが」
 感じたままの印象を素直に述べれば、意外だとばかりに見開かれていた双眸が、ゆるりと愉悦に滲む。
「そこまで察せているなら、因果も見透かせよう」
「見透かせていれば、あえて問うたりしません」
 そも、この主は極度のものぐさであり、類を見ないほどの切れ者なのだ。一から十まで言の葉にするような会話は無粋そのもの。察し、探って話題を継ぐ軽妙さと緊迫感こそが会話の醍醐味であると、そう感じているのは互いに同様であると知っている。


 女房として仕えるようになった最初のうちこそ、婉曲的というのとまた違うこの遣り取りの気さくさに眉をしかめられたものだったが、何より当の知盛が楽しんでいるという事実は重かった。溜め息混じりに「場所は存分に選んでくださいね」と釘をさされただけで放置されているのは、やはり例外的なことなのだろうと思う。
 確信を裏打つような含み笑いをはさみ、すいと流されたのは深く鋭い視線。
「本当にわからないのか? 俺は、自覚していると読んでいたが」
 誤魔化しは許さない。目を反らすのも許さない。すべてを剥き出しにして対峙せよと、男はあえて出会った時の立ち位置で向き合ってくる。
「お前が俺に何を重ね見ていようと気にせぬつもりだったが……その視線の熱、捨て置くには好ましすぎる」
 歌うように朗じ、伸べられた指はの眦を辿る。確かめるように、焦がれるように。
 肌を這う指の意外な温もりに思わず身を引くが、逃れることは適わない。知盛の視線にこそ、熱があり力がある。


 形などないくせに、それは確かに束縛の具現だった。囚われたが最後。何ものにも揺らがぬ圧倒的な意思の宿る瞳は、にとっては自ら沈みたくなる甘やかな檻。ああ、なるほど。自覚がないとは、なんと白々しい偽りであることか。
「……そんなに、焦がれているように見えますか?」
 認め、諦めた唇からこぼれたのは、自覚できない執着をうかがう言葉。なんとか引き剥がした視線は、床に置かれた杯に。ゆらと濁り酒に滲む月は、とろりとした乳白色。
「焦がれる……だけではないな。追い、求め、悼み、惑うといったところか」
 眦から熱が離れ、武人のくせにやたら整った、繊細な指先が杯を掬う。
「あるいは、――未練」
 ほんのりと目許を染めるだけで酔いの回った様子など微塵もみせないくせに、声は焼かれて掠れていた。囁きには酒精によるだろう熱が籠もる。甘やかな檻が、一層堅牢さを増していく。
「難儀なことだ。お前には、自虐の趣味でもあったのか?」
 声は憐れみと嘲笑によって複雑に塗り込められていた。
「あるはずがありません」
「その割に、中々に乙な目で俺を見るがな」
 かろうじて絞り出した震える声には、容赦ない追撃。本当に、それこそ獲物をいたぶる趣味でも持っているのかと聞きたくなるが、どうせ混ぜ返されるのだろうと思うからこそ、口を噤まざるをえない。
「心地よい、しかし嫌な目だ」
 空の杯を突き付けられ、半ば反射的に手にした瓶子を傾ける。だというのに、杯は酒が注がれる前に床に落ち、知盛は空いた両手での腕を捉えてくんと引く。
「悼み、懐かしむことで恋う目でなぞ見るな」
 倒し、瓶子の中身をこぼさないことにだけ意識を持っていかれている間にの両手首は知盛に絡められ、ごく傍近くに寄せられた瞳が、必死に隠していた郷愁を覗き込む。
「俺は、ここにいる」
 息を飲んだのは、いかな情動ゆえか。目を反らすことのできないまま、はひたすらに思いを殺す。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。