けもののまどろみ
細々とした仕事の合間を縫っては舞だの和歌だのといったいわゆる嗜みの類を学ぶだったが、そういう女房としての一般教養のみならず、特有の手習いの時間が設けられているのは、邸の主人の意向だった。出会いの形とそこから興を持たれた経緯を思えば当然ではあるのだが、だからといってどう考えても非常識な習慣をこうも堂々と貫くあたり、やはり彼は妙な人だと複雑な感慨が胸を満たす。
夕餉の片付けも終わり、ようやく人心地ついた頃にのその手習いは始まる。
邸の裏手にあたる庭の中央に立ち尽くし、背筋を伸ばして呼吸を整える。身に纏うのは主人に手ずから与えられた古着。大きさが合わなくなる以前に纏っていたという狩衣がこうも見事な状態で残っているのは、元の品が良かったからというだけではあるまい。
心を平らかに、神経を研ぎ澄まさせてまずは一歩。踏み出すと同時に振り抜いた勢いを殺さず、くるりくるりと次の動きに繋げていく。
学ぶようになってはじめて知ったのだが、舞の動きは、この稽古のそれに通ずるところが大きかった。無駄を省き、途切れさせることなく流し続ける。淀んではならない。固まってもならない。くるりくるりと、しなやかに繋ぐ。
しばらく無心に剣を舞わせていたは、ふと感覚のうちに滑り込んできた気配に気づく。閉ざされた視界はただ薄闇に満たされているが、それを切り裂くような鋭利な気配。色に喩えるなら、月明かりのような眩い白銀。その鋭さのままに、与えられた重い斬撃を受け流す。
ギィン、と。宵闇のしじまを硬質な音が縫いとめる。しかし相手は間断をおかず次々に攻めの手を繰り出してくる。殺気ではなく関心を、切り捨てる意思ではなく返されることへの期待を載せて。
「……良い腕だ」
「嫌味ですか?」
何合打ち合ったか。手心を加えられていることは知っていながらも、絶対的な膂力の違いと体力の差はいかんともしがたい。吹き飛ばされる勢いのまま間合いを取って姿勢を整えたところで、はようやく相手を視界に納める。
「嫌味、とは? 俺は、純粋にお前の腕前を褒めているんだが」
「まだ基本の型をなぞることしかできないのに、お褒めいただく理由はありません」
そも、その基本の型を教えた張本人こそが知盛。未熟な腕は、誰よりもよく理解しているくせに。声に出さなかった本音の一番深い部分は、しかし過たず伝わっていたのだろう。くつくつと喉を鳴らす音が、いかにも楽しげに夜闇に溶ける。
湯でも使ってきたのか、単衣にゆるりと狩衣を羽織っただけの姿は随分とくつろいでいて、常は好き放題に跳ねている髪も、今はしっとりと垂れて光を弾いていた。夜と月が似合う立ち姿は、ひどく浮世離れして感じられる。それほどの、圧倒的な美を纏うのが彼だった。楽しげに自分を見やっている深紫の瞳を見返しながら、は胸中で感嘆の息を落とす。
「まあ、そう言うな。はじめに見たときよりも、腕が上がったんだ。感慨を抱くぐらい、許されよう?」
しかしながらてっきり嫌味かからかいを返してくると思われた知盛は、の予想しえなかった方向の言葉を述べてきた。ぱちりと瞬き、与えられた言の葉の意味を噛み砕き、そしてはそっと問いを返す。
「上達していますか?」
「なんだ、自覚はなかったのか」
「あるにはありましたが、思い込みに過ぎないか、とも」
意外そうに、いっそ呆れ交じりともいえる勢いで投げ返された確認には正直な惑いを。型を教えてからは基本的に放置され、時折り気紛れのような手合わせをされるのみ。日を重ねるごとに動きが良くなっている実感はあった。だが、それを判断するには、にはあまりにも客観的に評価するだけの審美眼とも言うべき含蓄が決定的に足りていないのだ。
腰に佩いていた朱塗りの鞘に刀身を納め、礼を送ってからは改めて溜め息を吐く。
「もう仕舞いか?」
「早く部屋に戻られませんと、湯冷めしてしまいます」
夏の名残はもう遠い。夜風が涼しいのは寝やすくていいのだが、だからといってこの、とてもそうは見えない蒲柳の質の主に風邪をひかせたとあっては、にわか仕込みの女房としての矜持が大いに傷つくというものである。
つまらんだのなんだのと言いながらも、そのあたりは自覚があるのだろう。おとなしく手にしていた双刀の切っ先を地に向け、知盛は邸へと踵を返す。
「寝酒など、お持ちしましょうか?」
「そうだな」
ゆるゆると歩む背中から数歩置いて後を追いながら問えば、気だるい声が返る。そして何を思ったか、少しだけ弾んだ声が「いや」と言葉を継ぐ。
「お前も付き合え」
「……お酌はするつもりですが?」
「そうではないさ」
声が一層面白そうに笑いに揺れる。
知盛に出会ってよりはじき一年、邸に居を移してからも半年以上が過ぎたが、結局、官位を得て出仕しているということ以外は、いまだもって知盛がどのような立場の人間なのかはわからない。もっとも、他人を傅かせることにまったく違和感を覚えない境遇で育ってきたらしいことは出会ってすぐに察せていた。だからこそ、着替えを手伝ったり酌をしたりといったことにもすぐに慣れ、それが自分の仕事だと理解して過ごしているというのに、ふとした思い付きといった風情で知盛は容易にその常識を打ち砕く。
「堅苦しいのは好かん。汗を流したら、適当に身繕いをして酒を持ってこい。杯は二つだ」
「お客人ですか?」
「そう思うのか?」
「……わたしにも、飲めと」
「飲めんのか?」
飲める、飲めない以前の問題として、飲んだことがない。“こちら”に流されてからはそんなゆとりなどなかったし、“向こう”の常識に照らし合わせれば、は酒を飲むことを許されない立場だった。おまけに、その禁を破る機会もなかった。黙りこくったに何を思ったか、知盛はからかう色の強い声を背に放る。
「堅苦しいのは好かんと言ったろう。女房として召すのではないんだ。酔って醜態を曝しても、咎めはせん」
「………大変ありがたく存じます」
経験がない以上迂闊な否定もできず、かといって命令にも似た誘いを断るわけにもいかず、かろうじて捻り出せた意趣返しは、棒読みの礼の言葉。しかし、その必死の揶揄さえも今宵の知盛にとっては面白く感じられるらしい。階の向こうに放ってあった鞘に刃を納める硬質な音の向こうで、殺す気のない低い笑い声がやわらかく夜に滲む。
「慌てる必要はない。――その鬱陶しい気鬱、しっかり流してから来いよ」
脱ぎ捨てられた草履を揃える後頭部に響いた声に、小さく息を呑んだのは気づかれていなければ良いと、は切に願っていた。
Fin.