けもののまどろみ
あれよあれよという間に衣を取り替えられ、女房としての身なりを整えられたは、まずは言葉遣いだの所作だのから徹底的に躾けなおされることとなった。
広大な敷地を塀で囲ってはあるが、どうやら塀の内側は一軒の邸宅ではなく、いくつかの邸が集まっているらしい。どれだけ身分に隔たりがあるのかと、恐々としていたのは最初の十日ほどまで。その一角に居を構えているというだけで、特に何事もなく過ぎる日常に、はとにかく邸の女房達に引けをとらぬよう己を鍛えることに専念することを決めた。
とはいえ、自分がずいぶんと恵まれた境遇にあることはすぐに知れた。何をどう気に入られたのか、邸の主人つきというとんでもない立場をいきなり与えられるのが破格の待遇であることは、いくらこの世界の常識に疎いでもわかる。それでも、そのことに対する嫌がらせややっかみもなく、新参の、行儀作法のなんたるかさえ覚束ない小娘を躾ける厳しさ以外ではむしろ“故郷に帰れない”境遇を憐れまれ、何かと世話を焼かれるのだから、邸に仕える者達の懐の広さには、ただただ感服するばかりである。
「あら、それはもちろん、胡蝶さんがお可愛らしいからに決まっていますわ」
「うっ……。あ、ありがとうございます」
「ほら、そういうところがお可愛らしいのですよ」
ふと思い立ち、ようやく勝手のわかってきた掃除の手を動かしながらしみじみと素直な心情を吐露したは、一緒に掃除をしていた女房達のさざめく笑いに頬を染め上げて思わず俯いた。どうにも捻くれた、わかりやすいのかわかりにくいのかさえわかり辛い主人とは反対に、邸の女房達は皆、どこからどう見ても気の良い者ばかりである。最年少であることも手伝ってか、反応が面白いからか、こうしてからかって遊ばれるのが常のこととなるのに、そう時間はかからなかった。
「大体、私達が知盛様に懸想しているならばともかく、あくまで主人と女房というだけですもの。役割の別など、気にする必要がどこにありまして?」
手は止めないまま心底不思議そうに問い返されれば、逆に罪悪感さえ湧いてくる。自意識過剰だっただけなのか、思い込みが激しかっただけなのか。
なんとも自分の思考が恥ずかしくて目線は手元に集中させたまま、罪滅ぼしのような心持では思いを素直に紡ぐ。
「そのとおりなんでしょうけど、こちらにお世話になる前に、男主人への女房仕えはそういった駆け引きが本当に大変なのだと散々脅されたものですから」
「まあ、否定はいたしませんけれど」
「例えば、重衡様のお邸でしたら、そうだったかもしれませんわね」
呆れられることを覚悟の上ではあったが、ここ以外の邸に赴いたことがないのだから、比較対象のしようがない。半ば自己嫌悪、半ば好奇心が満たされることへの期待でうずうずしていたところに与えられたのは、想定よりも肯定的かつ具体的な応えの数々だった。
の生活の場は、あくまで知盛の邸である。用向きがあって市まで買い物に出ることはあるが、敷地内の別の邸に赴くことはない。だから、邸に普段いない人間のことは、基本的に噂話程度にしか知らない。
「重衡様とおっしゃると、知盛殿の弟君の?」
「ええ、そう。お姿は大変よく似ておいでですけれど、ずいぶんと物腰に違いがあられるのですよ」
「特に、その恋の多さは本当に有名なお話ですの。知盛様も相当に浮名を馳せておいでですけれど、重衡様には及びませんわね」
「重衡様はどなたにも本当に甘やかなお言葉を使われますから、言の葉を交わしただけで心を奪われてしまう方も少なくないのです」
ことんと首を傾げて確認のために振り返れば、きゃっきゃと楽しげな声が返ってくる。
「重衡様は少々特殊な例ではございますけれど、基本的に胡蝶さんに言い聞かせた方のお考えは間違ってはいませんわ。主人に見初めていただけるのは、女としての誉れとも言うべきもの」
ひとしきり最近の重衡にまつわる恋の噂について語り合ってから、ふと声の調子を元に戻して一人の女房が話題の原点に立ち返る。
「ですが、私達は知盛様にあらかじめ男女の仲にはなりえないと言い渡されてからお仕えしていますし、背の君や恋仲の方がおられる方がほとんどですし」
「せっかく女房としての有能さを評価したのだとお召しいただいたのに、ご期待を裏切るわけには参りませんわ」
ねえ、と賛同を誘う声には、深く頷く誇らしげな表情。基本的に、知盛の邸の女房は、他の邸に仕えていたところを引き抜かれている場合が多い。それゆえにだろう自身の職責への矜持の高さは、比べる対象を持たないにとっても存分に見習うべき要素として映っている。
己はこの主人に選ばれたのだと、そう胸を張って働く姿は眩いばかり。だから、彼女達は知盛に対して女としてではなく女房として対峙するし、ゆえにこそが懸念していたような事態は起こりようもない。なるほど、それは確かに彼女達が自身で言ったように、彼らの関係性が互いに明白に定義されているからなのだ。
ちろちろと燻っていた疑問の解消と同時に、早く自分もそうして堂々と立ち回れるようになりたいとしみじみ思いながら、は「詮ないことを申しました」と話題の終息を静かに願い出たのだった。
Fin.