けもののまどろみ
しばらく無言で馬に揺られ、連れて行かれたのは町から少し外れた広大な敷地を有する邸だった。塀伝いにぐるりと行くのを、よもやそここそが行き先とは知らず、ずいぶんと大きな邸だとぽかんと眺めていたのだが、どうやらその姿は青年の笑いのツボにはまったらしい。低く小さく、しかし殺す気など微塵もない笑声に、は首を小さく巡らせて視線を流す。
「笑わなくてもいいでしょう?」
「これは失礼。……しかし、ここまで驚かれるとは、予想だにしなかったものでな」
まったく悪びれた様子もなく詫びの言葉を入れられても、ちっとも謝られた気分にならない。さりげない皮肉に心外の意を瞳の表情だけで存分に訴え、かえって深まった笑みに諦めて前を向きなおす。
「臆したのか?」
「どんな人が住んでいるのかと、そう思っただけです」
「……例えば、俺もその一人だな」
試すような一言に、は慌てて上体を捻る。大人しくしていろと言わんばかりに馬が小さくいななくが、構っているゆとりはない。
「ここの、住人?」
「ああ」
「……ここに、帰るんですか?」
「ああ」
「………わたしは、こちらのお邸で働くんですか?」
「そういうことになるな」
いくらにとってこの世界が未だ多くの謎に満ち溢れているとはいえ、大雑把な価値基準は既に叩き込まれている。貴賎の別が存在し、身分の間には越えられない壁があり、そして邸の広さはそれらに直結する判断基準のひとつ。ふさわしからぬ振る舞いばかりだからわからなかったというのがの言い分ではあるが、名乗った時点で気づけというのが青年の側の主張。せめては邸の主人格であってくれるなとの願いむなしく、青年はようやく辿り着いた門を、堂々と騎乗したまま通過していく。
警護の者達に次々と頭を下げられ、厩で馬を預ければ恭しく手綱を引かれ、邸に上がり込めば通りがかる女房達が皆、脇に下がって控えている。もしかしなくともとんでもないところに雇われてしまったのかと、導かれるままに案内された部屋では、かなり年かさの女房がひとりで繕い物をしていた。
「安芸、いいか」
「これは、若様」
廊から声をかければ、振り返った女房は穏やかに微笑んでゆるりと会釈を送る。
「お出迎えもせず、失礼をいたしました」
「いや、構わん。それより、つれてきた」
立ち上がろうとするのを手で制し、ずかずかと入り込んで腰を下ろした青年は、どうしていいかわからずに簀子縁で立ち尽くしているをちらと見やる。
「行儀見習いだと思って、いろいろ教えてやれ。用があれば呼ぶ」
「かしこまりまして」
何がどうなっているのか。唖然としたまま遣り取りを眺めることしかできずにいたをようやく振り返り、顎を引くことで己の隣に座るよう指示してから青年は改めて口を開く。
「女房頭で、俺付きの女房の安芸という。お前は、これから安芸について色々と教えてもらえ」
「あき……、さま?」
「様付けはいりませんよ。女房同士なれば、さん、もしくは殿をつけて呼ぶのが普通ですね。お名前は?」
「、といいます。……安芸殿」
たどたどしくも早速指導どおりに呼びなおしてみれば、よろしいとばかりににこりと笑いかけられる。なるほど、確かに彼女は人の上に立ち、指示を飛ばす類の人間だと納得させられる、迫力と威厳のある微笑。
背筋を伸ばし、がちがちに固まっているをじっと見つめてからふと微笑みをやわらげ、安芸は隣でにやにやと楽しそうに観察を決め込んでいる主を振り仰ぐ。
「綺麗なお名前だと思いますが、そのままお仕えに?」
「いや、胡蝶と」
「では、そのように」
完全に置いてけぼりのをよそに、諒解しあった二人がぐるりと向き直る。
「お前、今日からここでは“胡蝶”だ。そう名乗れ」
「……女房勤めの、しきたりですか?」
「似たようなものにございます。基本的に、通り名で呼び合うものです」
要点を押さえた説明にほぉと納得し、それからふと気づいた様子では青年を振り仰ぐ。
「知盛……様、もですか?」
「………お前は俺付きの女房だ。今までどおりで構わん」
「知盛殿?」
「ああ」
そういえば今日から青年は自分の主なのだと、慣れない呼び方をしてみれば、あからさまに不機嫌な訂正が入る。
この呼び方も当初は戸惑いを覚えるものだったが、すっかり板についた。口馴染んだ音を紡げば、いつもどおりの声が抑揚も薄く、しかしどこか満足げに応える。
「お話は若様より伺っています。異国より流れ着き、頼る相手もないなど……さぞやお心細かったことにございましょう」
話の切れ目を狙って、次に声を上げたのは安芸。痛ましげに目を伏せられ、慌てて視線を流した先では青年がちらりと笑みを浮かべている。常識がないだのなんだのと、散々からかいながらも最終的にはの疑問に説明を欠かしたことのなかった青年は、やはりどうやら面倒見の良い性質であるとしみじみ実感する。本当に、風変わりな、そして優しい人。包み込んでくれるその気遣いに、懐かしい世界の面影が脳裏をよぎる。
「お国との違いに戸惑うこともありましょうが、この安芸がお助けいたしましょう。よく、励まれますよう」
「はい。よろしくお願いします」
感傷と感慨を胸に沈め、深く額を床にこすり付けては決める。どうしても郷愁を伴って彼を見つめてしまう自分にできる精一杯の礼を、最上の働きをもって返そうと。
「知盛殿も、改めまして、どうぞよろしくお願いいたします」
「――今日、この時より」
叶う限りの礼を尽くして主となる相手にも額づけば、ふと改められた深い声がそっと降る。
「ここを、在る場所と思い、帰る場所と思えば良い。拾ったからには、その責は負うさ」
「ありがとうございます」
きっかけは好奇心にして気紛れなのかもしれない。興味深いから手許に置いてやってもいいと、その本心がどこにあったにせよ、彼は恩人。だから、郷愁とともに、そしてこの世界で生きていれば知らず縛られているだろう常識から外れて見るからこそ視えてしまうのかもしれない彼の危うい在り方を、そっと支え、守りたいのだと。感謝の思いに覚悟を添えて、は三度、深く頭を下げるのだった。
Fin.