けもののまどろみ
気紛れな師は、ふらりとやってきては一通りの型を手本にみせるだけ。あとは気が向いた折に手合わせをするのみだったのが、こうして相手をすると宣言する程度には自分も上達したのだと、からかい混じりに褒められるよりもよほど深い喜びに、は頬が紅潮するのを自覚する。
「ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます」
向けた切っ先に視線を合わされただけでびりびりと伝わってきた実力の差に、鳥肌を覚えたのが主との出逢い。逃すべきではない好機をは決して逃さない。背筋を正して三つ指をつけば、後頭部に声が降る。
「型は大分できている」
不意打ちのように正された、それは常と少し色味の違う、同じもののふへと向ける声。
「後は、磨くのみ……だな。上達も早いし、お前の相手は、退屈しない」
だから精進しろよ、と、楽しげに付け加えて知盛は顔を上げさせたの瞳を覗き込む。
「精進して、腕を上げて、そしていずれは俺の背に立て」
顎にかけられているのはたった一本の指。力など微塵も篭められていない、ただ添えられるだけのそれに拘束され、息を呑み目を見開くすべてをまざまざと暴かれる。
「俺という存在を預かるとは、そういうことだ」
声は昨晩と同じく、静謐さの奥に熱と切実さを篭めて。月明かりに幻を見たなどと、言い訳はさせない。圧倒的な意志の強さが、のどかな空気を切り裂き、切り崩し、侵食していく。
「覆すなら、今だ……。この先、お前を知るほどに俺はお前に執着し、あるいは唐突にすべてを捨てるだろうよ。そういう形でしか、いられなくなる」
中庸を求めるなら、ここで引き返さなくてはならない。そうすれば、今までどおり、少し風変わりな主従の関係を貫ける。恐らく契約内容の揺らぎの可能性など何もわかっていないのだろう相手に逃げ道を示したのは、知盛の慈悲。
やがて、もしかしたら色味を変えるかもしれない知盛の要求を、は拒絶するのかもしれない。それは、生まれるより前から己を知っている女房によって示された、自覚の薄かった辿りうる道のひとつ。そして、その瞬間が来ても、昨晩のが受け入れた、存在を預けるという一線を譲れないことを知っている。それゆえ、相手の覚悟をいま一度問う。鞘は、そう簡単に見つかるものではないと知っているから。
「その日が来たのなら、」
だというのに、はどこまでも落ち着き払った声で静かにいらえる。
「共に戦場を駆けること、お約束しましょう」
おぼつかないながらも刀の扱いにそれなりに慣れた娘だとは思っていたが、同時に、人の血に濡れることなど知らないのだろうとも思っていた。だというのに、なんたることか。向けられた双眸は、瞬きひとつをはさんで深く暗い色を覗かせる。その手で人の命を断ち切ったことのある者だけが持ちえる、色。
知盛が言葉の裏に潜ませたのとは違う、けれどそれもまた聞きたかった覚悟が、鮮やかにほとばしる。
「この身は血の香を知っています」
「……随分と、物騒なことだ」
「お気づきだったのではありませんか? わたしの剣筋は、実戦で身につけたものです」
「だが、合戦の中で鍛えられたものでもない、だろう? 多勢を斬るには、大味に過ぎる」
自分の言葉に、だから見落としたのかと自己完結しながら、外した指できつと握られた膝の上の指を解く。
ほっそりした指は、とても刀を握るそれには見えないし、戦場で振るっていた証左も見当たらない。けれど、が偽りを述べているわけではないことを、知盛は確信している。形ばかりというには、あまりにもの身のこなしが命を守ることに手馴れすぎていた。決して並びえない矛盾が、ひたりと背をつけて居合わせているこの不可思議。
「それも、おいおい学びましょう。戦場に出たなら、わたしの意思にはかかわらず、この身がその術を知りましょう」
「……厭わんのか」
「厭うか、厭わないかではなく、何を定めるか、です。わたしはわたし自身を貫いて生きるために力を揮うと決め、悔いだけは残さないと決めました」
言って刷くのは深い笑み。覚悟の、自嘲の、喜悦の、許容とそしてもっと様々な色の入り混じった、混沌の深淵を覗き込んでいるような。
「鞘とは刃を守るため、刃と共にこそあるもの。見失わないと、そう誓いました。ならば戦場だろうとどこだろうと、許される限り、お供します」
ぼんやりと、知盛はの指をもてあそびながら考える。この娘にとって、戦場は取り立てて指差すべき特異な場所ではないのだろう。どこにあろうと、何をしようと、ただ貫く。そのために手にしたもののひとつが、たまたま刃だったというだけで。
指先ひとつとて、なすがままにされているのではなく、させている。何を言うわけでもないが、纏う空気で雄弁に語るを見やり、そして知盛は改めて笑う。
「許さぬことなぞ、ないだろうよ」
人の血を知っているとは言っていたが、合戦のなんたるかも知らないだろう娘。あるいは、実際に陣に連れ出せば泣き叫ぶのかもしれない。だが、たとえその段になってこの場で紡いだ言葉を悔やんだとしても、それさえ飲み下して定めた道を進むだろう深い瞳を、知盛はありありと思い描くことができた。
「では、一日も早くその背を預けていただけるよう努めます」
数が多いとはいえないが、合戦のなんたるかを知っていればこそ真摯に返したというのに、はふわりと目許を和ませる。決して軽い言葉ではないのにこうも気負わないとは、肝が据わっているというか、恐れ知らずというか。
「――ああ」
捕らえた指を解放し、そのまま己の指を呟く唇にあてることで、あっという間に散ってしまった体温の名残りを思う。
ああ、なるほど。さすがは生まれる前から傍にいるだけのことはあって、安芸の観察眼は知盛の自覚よりもよほど的確だった。どうやら、自分で考えるよりもよほどこの娘を気にかけていて、期待して、好ましく感じているようだ。
理屈が先に立つ弟とは対照的に、直感を頼りに物事を判じる傾向があることは自覚していたが、無意識の段階で好みに当てはまると悟っていたらしい。こうして少しずつ意識が追いつくのは、奇妙な感じもするが新鮮味に満ちていてなかなか趣深い。逸らさぬ視線の先では、独り言なのか続きがあるのかを判じかねたらしいが、痺れを切らしたのか小首を傾げる。
「どうしました?」
「いや」
だが、まだそれは教えてなどやらない。くしくも先ほど自分で女房達に宣言したとおり、これはじっくりと時間をかけて楽しむべき駆け引きだ。
「逃げられなくて良かった……と、な」
「逃げるつもりなら、はじめにお会いしたときにそうしています」
曖昧にぼかした言葉には、きっぱりした意思がつき返される。こぼれる笑声をとどめようともせず、知盛は今度こそしみじみと真情を吐露する。
「つくづく、妙な女だ」
知盛にしては珍しい偽らざる心からの言葉だったというのに、受け手たるは、心外だとばかりにそっぽを向いてしまった。
Fin.