朔夜のうさぎは夢を見る

はじまりのはじまり

 毛細血管の隅々にまで、まるで鉛を流し込んで固められたかのような体の重さ。薄い皮膚を透かして光が差し込んでいるのはわかるが、持ち上げるには睫の一本さえ重すぎて、は静かに息を殺した。
 風がやわらかい。仄かに鼻腔をくすぐるのは、湿り気を帯びた土と木と緑のにおい。背中はごつごつと硬い何かにぶつかっていて寝心地が悪いし、何より疲労が深かった。
 ここはどこだろう。
 馴染みのない空気に、浮かぶのはひたすらに疑問ばかり。
 ここはどこだろう。皆はどこだろう。自分はあの後、どうしたのだろう。
 思索が最後に立っていた場面に及ぶと同時に、は渾身の力と共に跳ね起きた。
「――ッ!」
 身体中に熱にも似た痺れが走り、追ってそれを痛みと認識する。もっとも、そんな瑣末事にかまける気はさらさらない。必死に周囲を見渡し、夢から覚めた証左を探し求める。しかし、視界に映るのは見覚えのないものばかり。
 離れた場所からは子供の遊び声が聞こえ、枕辺には水差しが置いてある。わかるのはただひとつ。どうやら、誰かに世話をされていたということ。
 なぜ、どうして、何があったというのか。
 掛けられていた質素な布を握り締めることで胸に迫る衝撃を必死にやり過ごし、思考回路を動かそうと躍起になる。


 視界に映りこんだ指先は、細かった。細く、頼りなく、小刻みに震わせることしかできない指先。自分の無力さを象徴しているようで、片頬が自嘲に歪むのを感じる。
 見慣れない衣に身を包まれているらしく、袖は色褪せた二藍。肌触りが良いとはお世辞にも言えないくたびれた布からのぞいているのは、見慣れた己の腕だ。恐る恐る頬に触れ、顔の輪郭を辿り、肩からこぼれてきた髪を掬う。
 夜闇色の、長い髪。それはの密かな自慢であり誇りだった。家族が、友人が、皆が共通して褒めてくれた自慢の髪。だから、手の及ぶ限り必死になって手入れを続けてきたのだ。艶を持ち、しなやかに滑るそれをひとつに結い上げ、風に靡く様がよく似合うねと言われることがささやかな誇りだった。そんな他愛のない、崩壊することなど考え付きもしないあの幸福で切ない日々が、今は何と遠いこと。
 わけもわからず溢れてきた涙の感触に、輪郭を確かめていた両手で顔を覆う。静寂を乱さないように声を殺し、直面した現実の不可解さにではなく、たゆたっていた世界に廃絶された己を悼んで、泣く。
「どう、して……」
 わかるのは、ここには誰もいないということだけ。


 小さな、無垢な気配がパタパタと駆け寄ってきて、開け放たれていた木戸の向こうから乗り込んでくる。
「あ、お姉ちゃん起きたんだね?」
「本当だ。よかった!」
「泣いてるの?」
「どこか痛いのかな? 住職様が来るの、待ってられる?」
 それは知らない光景。けれど懐かしい光景。そっと指を外し、期待と絶望をないまぜにして覚悟を決めた視界には、日常とは言いがたい、けれど彼らにあまりにもしっくりと馴染みすぎた民族衣装。
「よかったね。お姉ちゃん、ずっと寝ていたんだよ」
「もう五日になるよ。お寝坊さんだね」
 きゃらきゃらと纏わりつく子供たちには、疑問の影などありはしない。そしては知る。ここは、己の知っている故国ではありえないのだと。


 喉の奥に絡んだ呻きは、結局唇を割らなかった。ただ無音のうちになぞるのは奇跡の呼称。ああ、きっとそうなのだろう。それは確信だった。自分は、人智の及ばぬ力によって、このありうべからざる場所へと飛ばされたのだ。
「これこれ、あまり怪我人を困らせるでないよ」
「あ、住職様!」
「はーい」
「じゃあ、お外に行っているね」
「お姉ちゃん、またね!」
 そして加わったもうひとつの気配は、子供たちを窘めてから虚ろな瞳で唇を噛み締めているの隣にそっと膝をつく。
「お前様も、大変だったね」
 目が覚めて良かったよ。このままでは、どうしようもなかったからね。
 返答の有無、反応のありなしなどまるで気にしないといった穏やかで深い声がしみじみと紡ぐ。そのままそっと眼前に差し出されたのは、凶悪なにおいを放つ濃緑の液体を湛えた、質素な椀。
「さあ、飲みなされ。目を覚ましたからには、生きよという御仏の御意思だろうて。お前様が“どこから来た”のだとしても、今ここで生きているのは確かなのだから」
 もって回したような言葉の選び方にはたと振り返れば、声音のままに、深くたくさんの皺を顔中に刻んだ翁が静かにを見据えている。


「見慣れぬ衣を着て山中に倒れているのを、夢枕にてお知らせくださる方があってな」
 さあ、と。揺らした腕で椀を握らせ、翁は静かに言葉を編む。
「私も長く生きてきたが、神隠しに遇うた拾い子ははじめてだ……。帰れるか、帰れぬかはわからないが、まずは生きなされ。御仏に託された命を、粗末にしてはならないよ」
 受け入れたはずの現実が、突きつけられた言葉によって裏付けられる。滲む視界の原因はわかっていたが、なぜ滲ませねばならないかはわからなかった。一向に受け取ろうとしない椀を床に置き、そっと頭を抱きこんでくれた翁からは仄かに抹香の香りが燻る。
「お前様を護る御方は、ちぃっとばっかし意地が悪くておいでだね」
 深い深い声のゆるりとした呟きに、は改めてことの裏側に働く力を思う。神隠し。口中で噛み締めた言葉は、あまりにも皮肉。信じがたい、けれどそれ以外に説明のしようはなく、何よりそれこそが真理なのだと確信している己がいた。非科学的なすべてが妄言と片付けられる世界に生きてきて、かくも非科学的な事象を体現する証人になろうとは。
「――わたしが、何をしたというの」
 この身をかの世界から断ち切ることこそが目に見えぬ力の意思だというのなら、どれほどこの身は罪深いものなのか。自身への失望がじわりと込み上げる声で、は悼んだ。ただ、帰れないという確信だけが、しんしんと胸に降り積もる。
 切り離すことを望まれるほどに、かの世界との絆が薄かった己を突きつけられた気がして。もはや基準さえ定められなくなった己という存在の曖昧さに、これまで重ねることを許された時間の尊さを、ひたすらに悼むことしか出来なかった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。