朔夜のうさぎは夢を見る

はじまりのはじまり

 虚ろに見据えようが意思をもって見据えようが、世界は変わらず廻りつづける。太陽と月が交互に空に昇るのを幾度見た頃か。はようやく、理解する地点で留まっていた“諦め”を受け入れた。
 子供たちが洗ってくれていた制服は、住職に頼んでお堂に奉納させてもらった。もう、戻るべきではない。戻れないし、戻らない。今ここで、こうして心臓が脈打ち、呼吸を繰り返し、五感が揃っていたとしても“かつての自分”は死んだのだ。だから、亡骸の代わりに自分をかたどっていた制服を打ち捨て、字面の意味さえ通用しない肩書きのすべてを葬ることにした。
 言葉が通じるのは幸いだった。少しずつ、少しずつ、は状況を飲み込んでいく。
 知っているけれども知らない世界。常識という名の思い込みを排除し、幼子にさえ教えを乞いながら、生きる術を身につける。少なくとも、自分を思ってくれる存在がいる限り、命を粗末にするようなまねだけはするまいと、それは世界を違えようとも譲れないの意地であり矜持だった。
「お姉ちゃーん! お迎えだよー?」
「ありがとう。すぐに行く!」
 庭にざわめきと馬のいななきが小さく聞こえるのと、あどけない声が無邪気に呼びかけるのはほぼ同時だった。聞き間違えることのないように意識して張り上げた声で答えてから、は狭い部屋の中を見回す。


 を拾ってくれたのは、町から少し離れた山中の小さな寺の主だった。孤児を幾人も抱えて、質素ながらもやさしく日常を紡ぐ住職に助けられ、生きる上での最低限の知識を身につけたが次に願い出たのは、独立する術を知ることだった。
 決して豊かとはいえない寺の生活に、自分のような立派な成人が――この世界の常識に照らし合わせれば、と同年代の女性は何がしかの仕事を持っているか、結婚しているのが当たり前と知ったのは目を覚ましてすぐのことだった――いつまでも甘えているわけにはいかない。それでも、後ろ盾のないが就ける職など限られている。
 修練を積んで白拍子になろうにも、師事する相手がいない。耕す畑もないし、身を寄せる男に知り合う伝手もない。世界が違えど、女の身であれば春をひさぐくらいはできようと、いささか道を外れた覚悟に腹を括りつつあったを拾ったのは、それこそ道外れで出会った風変わりな青年。何を好き好んでか逢魔ヶ時に山歩きをしていたその青年は、山菜を採りに入った先で足を挫いて立ち往生していたを見つけ、奇妙な縁を結んだのだ。
 思い返すに、青年がどこか風変わりで本当に良かったというのがの素直な感想だ。賊か、獣か、いずれにせよ襲われてはひとたまりもないと、手にしていた鎌の切っ先を迷いなく突きつけたというのに、それに気を悪くすることなく、むしろ「いい度胸だな、気に入った」と言い切ったのは、傑出した実力を自覚していればこそだろう。
 合縁奇縁か、他生の縁か。とにもかくにも渡りに船と飛び込んだ結果、こうしては寺を離れる日を迎えたのである。


 余計なものはおろか、生活に必要なものさえなんとか体裁を整えるのが精一杯のみすぼらしい部屋は、それでも優しさとあたたかさに満ちていた。ここに拾われ、ここで救われ、そしてここで生まれなおした。覚悟を新たに胸に刻み、はするりと踵を返す。
 振り向かない。振り返らない。引きずっていたものは、ここにすべて置いていこう。踏ん切りをつけたつもりでつけきれていなかった、甘えた子供の自分を改めて切り捨てる覚悟を決め、廊を歩く。
 庭先にて待ち構えていたのは、立派な黒毛の馬を従えた風変わりなあの青年。身につけているものといい、物腰といい、きっとそれなりの身分ある者だろうに、遣いを走らせるのでもなければ供もつけない。もしかして、使用人が極度に少ないから自分のような人間を雇う気になったのかもしれないが、やっぱり感想は「妙な人」という一点に集約される。

 ちらと視線を寄越したきり、の会釈もただ受け流すだけでぼんやりと門にもたれかかり、青年は何も言わずに立ち尽くしている。いい加減慣れはじめてきたその対応に、気を悪くすることも困惑することももはやない。いつものことと、さっさと階に座り込んで草履を履いていると、背中から呼ぶ声があった。
 ちょうど足元を整え終わったのをいいことに、地に降り立って振り向けば、やわらかいしわくちゃの慈愛。
「住職様」
 子供らを腰周りに纏わりつかせ、深く微笑む翁には万感の思いを篭めて頭を下げる。
「お世話になりました」
 たった一年。されど一年。彼がいなければ今の自分はいないと、知っている。


 拠り所を見失い、繋ぐことを惑いさえした命に、繋ぎ、紡ぐという道を与えてくれた人。意味を考えなさいと、叱ってくれた人。
「惜しみ、愛おしみ、まっとうしなされ。満ちるその時は、おのずと知れるものじゃ」
「はい」
 下げた頭を撫でられ、促されて持ち上げた視線の先には、深く静謐な菩薩の瞳があった。満ちるその時が来たのなら、自分はこんな目をして逝けるだろうかとは思う。
「息災でな」
「住職様も、お元気で」
 お姉ちゃん、またね。元気でね。遊びに来てね。次々と投げかけられるいとけないはなむけににこりと笑い、は改めて踵を返す。振り向いた先、かち合った表情の読めない視線にもやはりにこりと笑いかけ、外されないから外さないまま、まっすぐに歩み寄る。
「もう、いいのか」
「ええ。お待たせしてごめんなさい」
「……行くぞ」
 落ちる声は静かで抑揚が薄い。慣れない者が聞けば酷薄に聞こえ、怯えかねないものなのだろうが、は彼がその酷薄さの向こうに潜ませているものを知っている。気紛れに、それこそ賊か物の怪の類である可能性のある小娘を拾い、黙って麓の寺まで送ってくれた彼がどれほどの酷薄さを装おうとも、怯える理由などないのだ。
 向けられた背中越しにちらと視線を流され、無言のまま騎乗を促される。手綱を握るには技量が足りないが、乗り降りだけならば随分と慣れた。歩み寄り、毛並みよりなお深い漆黒の大きな瞳を覗き込んで「よろしくね」と微笑み、勢いをつけて黒馬の背に乗り、横向きに姿勢を整える。間髪おかずに微かな振動をつれて後ろに飛び乗った気配を感じるのと、馬が走り出すのは同時。
 見送る声に、振り返ることはしない。ただ、凛と伸ばした背中だけを残した。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。