はじまりのはじまり
――聞いた? この前の行方不明の被害者、この辺に住んでたらしいじゃん。
――聞いた聞いた。おかげで遅くまで出歩くなって、親がうるさいの。
――先生も言ってたよね。気を付けたくらいで変わらないと思うんだけど。
――でもさ、早く帰れるのはラッキーかな。
――あんたたちは帰宅部だからそんなこと言ってられんの! 大会近いのに、ありえない!!
――まあ、安全第一。仕方ないよ。
――まーたアンタはそういう呑気なコト言って。この中だとアンタが一番危なっかしいんだよ。わかってる?
――そうそう。気を付けてよね。変なとこで警戒心薄いっていうか、天然っていうか。
――……そんなことないよ?
――疑問形は肯定と一緒!!
――心配だなぁ。
そんな、他愛のない会話を交わしていた。事件はいつでもディスプレイの向こう側。家も学校も、ありきたりな起伏しかない平凡な生活。刺激を求めるほど飢えてなんかいなかった。周りは退屈だとか早く卒業したいとか言っていて、だからいつも言いそびれていたけれど、そんな毎日が好きだった。
目を覚まして、制服に着替えて、家族と挨拶をして学校に行く。約束なんかなくてもそこには友達がいて、当たり前のように一緒にいて。そんな毎日が好きだった。確認しなくても繋がり続ける関係性が好きだった。狭かろうが制約があろうが、心が満たされているかぎり、そこは間違いなく楽園だった。
だから、見落としたのかもしれない。冗談めかしながらも半ば真剣に、友人達はわたしの平和と安息に満たされた弛みっぱなしの危機感を心配してくれたのに。ありえない非日常が足下にぽっかり口を開けていたことに、踏み込むまでわたしは気付かなかったのだ。
件の連続行方不明者事件がマスコミに『神隠し』と揶揄されているのは知っていた。共通点はなし。年齢、性別、社会的地位、果ては行方不明になる場所も時間もばらばら。例外として共通しているのは、痕跡を一切残していないということ。そんな事実は手がかりになるはずもなく、捜査は遅々として進まない。だからこそ警戒のしようもなく、せめてもの自衛策としての早めの下校を学校側が与えてくれたというのに、まるで意味をなさなかったというわけか。
目の前には木立が広がっている。地面は土と枝と下草と小石でごろごろしていて、コンクリートの気配は微塵も感じない。いつもの夕暮れはどこへやら。見慣れた住宅街でない場所に立っていることはわかるが、何がどうしてこんなことになっているのかはさっぱりわからない。
「……どこよ、ここ」
掠れた声は冗談のように震えてひび割れている。現状把握が追いつかない。理解できない。生まれてこのかた、学校行事やらであえて踏み込まないかぎり、こんな野趣溢れる場所になどお目にかかったことはない。近所にこんな場所などないはずだ。ぼんやり歩いていても迷うはずのない、本当にありきたりな住宅街だというのに。
見渡すかぎり、付近に人の気配はない。不審者に警戒しなくてすむことを喜ぶべきか、誰でもいいからと縋る相手がいないことを嘆くべきか。うまく働かない頭を緩慢に振り、無意識とも言える慣れた仕草で鞄から携帯電話を取り出す。
「……なんてお約束」
開いたディスプレイに、アンテナは一本も見当たらず、代わりに圏外の二文字が鎮座していた。見るからにそんな感じの周囲であるから、ある程度の覚悟はしていた。電波のネットワークは、いまだに案外穴だらけなのだ。
溜め息を吐いてからしまい直そうとして、思いがけず地面に携帯を取り落としていた。しゃがみこんで手を伸ばし、拾おうとしては取り落とす。そんなくだらない作業を四回繰り返したところで、ようやく指先が無様なほどに震え続けていることを自覚した。
危惧している最悪の事態が当たってしまったらと考えるだけで、握りこんだ両手の震えは酷くなる。しかし、一方で希望は捨てきれない。
一刻も早く電波の届く場所に出て警察なり消防なりを呼べばいい。この画面に見慣れたアンテナが一本でも立てばそれでおしまい。妙な体験をしたと友人らへの他愛ない話題になって、この木立は記憶の底に埋もれる。
ようやく拾い上げた携帯電話をことさらゆっくりと鞄にしまいこみ、瞑目して深呼吸をする。パニックにだけはなってはいけない。どこであろうと、夜の山は危険なものと相場は決まっている。とりあえず、木立を抜けて電波を受けやすそうな場所に出る。山を下り、麓に出る。すべてはそれから。ぐしゃぐしゃに掻き乱された思考にそれだけを叩き込み、歯を喰いしばって傾斜を辿る。
勾配はさほど急でもなく、ほどなく木立を抜けることができた。木立を抜け、そして見えたのは山の裾野に穏やかに広がる田園風景。首を巡らせて見渡せる限りの広い範囲を見やっても、どうしたって常識外れな光景しか目に映らない。
知らない知らない知らない。こんな場所は知らない。こんな景色は見たことがない。田園風景はのどかだった。合間に見える小屋は時代錯誤だった。きっとこれが絵葉書だとか写真集だとか、あるいはテレビの特集番組の一場面であるなら、間違いなく感心の吐息を零していた自信がある。だが、これは現実なのだ。吹く風はひんやりと冷たく、夕焼けは全身を橙に染め、地面からは少しかびっぽいにおいがする。
空回る思考回路と、制御を失いつつある運動神経。膝が笑い、立っていられなくなってその場に座り込む。
件の連続行方不明者事件がマスコミに『神隠し』と揶揄されているのは知っていた。消えた誰もが痕跡を一切残していない。煙のように、夢のように、幻のように。彼らはあの世界から存在を掻き消された。でも、それはすべてディスプレイの向こうの話であるはずだった。
ありきたりな起承転結。朝起きて、食事をして、学校に行って。他愛のないことで大騒ぎをして、文句を言って、笑いながら一緒に帰って深く考えずに別れを告げる。それは、またすぐに会えることを知っているから。
何もいらない。特別なことは何もないけれど、特別なことは何もいらなかった。狭くて制約があって、終わりが見えていて、虚構だらけとわかっていて。それでもそこは、間違いなく楽園だった。たゆたっていることが幸せだった。叶わないと知っていて、終わりが来ないことを願っていた。
吹く風に髪が流れ、目の前にある木々の影が揺れた。どこまでも現実離れした、夢のような事実が広がっている。どうすればいいのか、どうするべきなのか。必死に張っていた虚勢はもはや限界。込み上げる嗚咽を堪えもせず、はひとりその場で泣き声を上げた。
Fin.