朔夜のうさぎは夢を見る

花の散るらむ 〜参〜

 幹部同士の不和に端を発したらしい新撰組の内部分裂の後始末に少しばかり手を入れる用事はあったものの、あくまで人の力で、歴史は動いていく。大政奉還の大号令があり、三百年にわたって続いた幕藩体制が音を立てて崩壊していく。そして、時勢に乗れなかった、あるいは乗ることをよしとしなかったモノたちが、やがて忘れ去られゆく時代を歴史に少しでも鮮やかに刻まんとでも言うかのごとき勢いで、生まれ来る時代に世界の残酷さを教え込んでいる。
 伏見奉行所に乗り込んでいく薩長連合軍を高みから見下ろして、は風間の隣で歴史の潮を傍観する。
「決したな」
 つまらなそうに見下ろしながらも、風間の声は深い感慨に濡れていた。さしもの鬼の棟梁も、自分たちを苦境に追いやった徳川幕府の崩壊には胸を打たれたのか。あくまで変わらない横顔をちらと見やってから、は短く「そうですね」と相槌を返す。
 声が迂闊にも震えたのは不覚だったが、致し方あるまい。ちらりと流された視線が笑っていることを視界の隅で見て取り、内心で悔しさに眉根を寄せる。
「徳川幕府の滅びを予言していたくせに、何か思うところでもあるのか?」
 だが、かけられた声に滲んでいたのは純然たる苦笑であり、決して嘲弄の色ではなかった。新撰組を「時流を読めない大馬鹿者ども」と称しているからには、倒幕に感傷の気配をみせた自分もまた鼻で笑われるのかと身構えていたは、意外さに思わず言葉を返すまでに間を置いてしまう。
「何だ。罵られたかったのか?」
 被虐趣味だな。そうからかう声はやわらかく、ムッとしながらもは溜め息を吐き出してゆるりと首を振る。
「そういうわけではありませんけど、馬鹿にされるかとは思いました」
「馬鹿にはせんさ。俺だとて感慨深くはある。……三百年の歴史が、崩壊する瞬間に居合わせるのだからな」
 言って目を細め、風間は呟く。
「歴史の転換点は血塗られるものと、相場は決まっている。古来より変わらない、人間の愚かさというものか」
 その言葉が一体“どの”史実を示しているかはわからないものの、は胸に迫る感慨を覚える。


 思い返すのは、体感時間にしてみればわずか五年ほど前の早春。あの日、は確かにひとつの終わりの場に立っていた。思えば因果なことだ。あの日の終わりは貴族政治から武家政治への変遷を象徴し、そうして移ろった武家政治の完成形であったはずの徳川幕府の終焉に、こうして立ち会うなどと。
「愚かさ、なのでしょうね。だって、他に術がわからないんですから」
 穏やかな変遷があるのならそれが一番だろう。だが、そうはいかない。互いの主義主張は、時に誇りや生き様に直結し、それを譲ることは己の生きてきた過去を否定することと同義になる。
 精神性の死のみを迎えられる人間などいない。それは自我の崩壊だ。魂魄と、その言葉が示しているではないか。人は、肉体と精神と、その双方が密接に関係しあってはじめて生を紡ぐのだと。
「命を賭け、己の誇りを示し、滅ぶと知っていてもその道行きを譲れない。……だからこそ、この国には桜を愛でる心が息づいているのでしょう」
「美しく潔く、散る時を知る花――死を見透かした生の持つ魅惑、と?」
「むしろ、蠱惑でしょう。さもなければ、政権が貴族の手にあった古から、この先の、武士が姿を消す未来まで……永劫とも思える呪縛をこの国に齎すはずがないと感じるのは、考えすぎだと思いますか?」
 生まれたのは遥かな未来。生きることを思い知ったのは遥かな過去。そして現在を見つめながら、は至った感慨を言葉に託す。
「いや」
 しばしの沈黙をはさみ、ますます激しさを増す騒乱の気配に双眸を眇めて、風間は仄かに微笑んだ。俺にもわかる、と。

***

 伏見奉行所に立て篭もっていた新撰組の面々をはじめ、幕軍の主戦力は潰走したらしい。向かう先は淀城だろうが、無駄なこと。あの城は開かれない。こうもあからさまになった時勢に逆らうのは、滅びにさえ牙を剥く気概のある、ごく一握りの存在だけ。日和見主義者たちは、長いものに巻かれるのが得意なのだ。
「さて、これで最後だ。もう少し働くとするか」
「幕軍の掃討に手を貸すんですか?」
「必要はないだろうがな。形式というものだ」
 言いながら踵を返して山を下る風間を追いながら、そういえばとは考える。
「千鶴さんは、まだ新撰組にいるのでしょうか?」
「さぁな。この混乱だ。はぐれていても不思議はない」
 手に入れるのだと言ってはちょっかいをかけていたくせに、その声は淡白に凪いでいる。
「だが、あの女鬼には姫がつけた護衛がいるだろう?」
「信用しているんですか?」
「お前と同じだというなら、疑う必要がない」
 あっさりと断言し、そして風間は進行方向から微かに聞こえる金属音と苦悶の悲鳴に向かって顎をしゃくった。入り乱れたそれらが諍いを意味していることはわかっても詳細を把握できていなかったは、藪の向こうに見えた惨状に、複雑な思いでとりあえず溜め息をついておいた。


 一刀で斬り捨てられた屍の中心で、顔色を失くして座り込んでいる小柄な背中が見える。その隣には、懐紙で丁重に血脂を拭い、太刀を鞘に収める銀髪の男の背中。
「いい腕だな」
 立ち込める血臭には微塵の感慨もみせず、そう笑いながら風間が距離を詰める。かわいそうに、遭遇した惨劇で頭がいっぱいだったのか、びくりと揺れた千鶴の後ろ姿は痛々しいことこの上ない。
「お褒めいただくには、あまりに骨のない連中だったが」
「なに、その女鬼を護ると豪語した新撰組の連中ではなく、お前こそが守ったのだ。素直に受け取っておけ」
「千姫の意向だ」
 自分の意思ではないと言外に言い捨て、揚羽は微塵も驚いた様子などなく、流麗な動きで振り返る。
「いいのか? ……俺が斬ったのは、薩摩の兵だぞ?」
「俺には関わりのないことだ。あくまで義理返しのために付き合っているのであって、それ以上もそれ以下もない」
「それはそれは……差し出た口を、お許しいただければ幸い」
 喉の奥で笑いながら悪びれた風もなく言って、そして揚羽はようやく立ち上がった千鶴へと視線を流す。
「どうしてあなたがここにいるんですか?」
 蒼褪めながらも瞳に篭める力は失わず、気丈に立ち向かう姿は可憐にして果敢。にったりと嗤う風間の横顔に嗜虐の愉悦を認め、は黙って半歩ほど距離を置く。互いに楽しむ、とは言いがたいのだろうが、問われた内容に対して説明を惜しむ性格ではない。むしろ状況からして、喜々として微に入り細を穿つ説明を繰り広げてくれることだろう。
 情報開示の範囲を確定できる権限はにはない。当事者同士に任せようと傍観を決め込めば、自然と、同じく傍観者にしかなれない男と目が合う。

***

「ご無事なご様子で、何よりと存じます。揚羽殿」
「……もう少し、口調を砕け」
 どう呼びかけたものかと逡巡し、結局、名乗られたまま呼んだに、揚羽は不機嫌そうに眉根を寄せる。
「ここでは、敬称は神子殿が使われたいたものと同じのを使うようじゃあないか」
「………では、揚羽さん、と?」
「違和が拭いきれんが……まあ、いいか」
 耳慣れた声に慣れない名前で呼ばれることはあまり愉快なことではないらしかったが、それこそにはどうしようもない。礼を失さぬ程度に、しかしかつてよりは気軽な口調で構わないとの許しに「らしいことだ」と薄く微笑み、さっそくとばかり、ずっと問いたかったことを口にする。
「今さらかもしれませんが、どうしてこのようなところに? 怨霊ではないと、そう感じますけれど」
「さて。俺にわかるのは、神子殿に負け、助かるはずのない傷を負ったまま身を投げたということだけだ」
 その後のことは知らん、と。自身の身に降りかかった摩訶不思議さえ、興味が向かなければあっさりと投げ捨てて、揚羽は双眸を眇める。
「長らえたのなら、あえて捨てることもない。……こうして“生きている”お前にも再び出会えた。もはや殻をかぶる必要もないのなら、好きなように、残る時間を生きるだけだ」
 あっさりと告げる声は、ただ静かに凪いでいた。一門の行く末が遠い物語として語られる世界にてどれほどの時間を過ごしたのかは知らない。だが、小さくはなかっただろう衝撃と感情のうねりを、彼はもうやり過ごしたのだろう。相変わらずの勁さだと思い、その心が少なからず惑っただろう瞬間にこそ傍にいたかったのにと、悔やむ。


 知らず俯いていた視線が、つと頬を包んだ硬い掌によって持ち上げられる。
「ここもまた、お前の故郷とは違うのか?」
 仰ぎ見たその真正面から覗き込む深紫の瞳は、相変わらずの透明さと奥深さを湛えてに向けられている。世界をどれほど逍遥しようとも、きっと彼は彼という存在を違えないのだろう。その強さに憧れ、頼り、甘えていた。それを許してあえて傍に置かれている自分が、くすぐったくて嬉しくて、幸せだった。
「生まれたのは、ここよりさらに歴史を辿った先になります」
「なんとも、月の都とは遠いもの、だな」
 呆れたように呟いて、揚羽はかつてに比べればだいぶ短くなってしまったの髪を撫でる。
「無事で、何よりだった」
 そして与えられたのは、このありえない邂逅への言祝ぎ。やわらな微笑みはくつろいでいて、はようやく、『帰った』のだと安堵の息を吐き出す。この先、生まれ故郷に辿りつくことがあってもなくても、もはやあまり変わりはしない。自分はただ、彼の隣にこそ還るのだから。
「おい、行くぞ」
 と、唐突にかけられた声に視線をめぐらせれば、どうやら対談を終えたらしい風間と千鶴が、足を山頂に向けている。目を丸く、頬を染めながら凝視してくる千鶴を見て、はようやく自分と揚羽が恋人同士のような距離で見詰め合っていたことを思い出し、苦笑を刷く。かの時代に比べてかなり色恋がおおっぴらになりつつあるとはいえ、どこか初心な様子のある少女には刺激が強かったのだろう。
「わかりました。千鶴さんも参られるようですし、揚羽さんも、参りましょう」
 するりと、物理的な拘束力を持たない手の内から抜け出し、は先導するように足を踏み出す。何の返答もなくとも、彼が共にくることはわかっていた。

***

 山頂から町を一望し、容赦ない時代の激流を千鶴の目に見せ付けて、風間は終焉を宣言した。彼の独自の基準は種族の違いではなく個性によるものらしく、千鶴を探してわざわざ山までやってきた千姫は、「番犬がいないからもう追わない」と言い放つ風間を、信用できずにいるようである。
「本当に? 本ッ当に諦めるのね?」
「……姫、差し出がましいとは思うが。あまりしつこいと、気が変わる可能性が高まる……と、ご忠告申し上げようか」
 面白そうに目を眇めてその様子を観察していた揚羽は、しかし何を思ったのか、重ねられる言葉の合間にするりと声をはさむ。
「でも、ちゃんと念押ししておかないと――」
「そのお心こそ、気まぐれを覆してお嬢さんに構おうと思い立つ、一番のきっかけとなろうよ」
 くつくつと喉を鳴らしながら、推察の口上を断定の口調で紡ぎあげる。
「……どうしてそう思うの?」
「そちらの御仁の考え方には、何やら覚えがあるゆえ、な」
 それこそ胡散臭そうにジト目を向けてきた千姫への返答に、隣で聞いていたは思わず笑声をこぼしてしまう。
「何だ?」
「なぁに? あなたもなんだかわかっちゃってる感じなの?」
 片や怪訝そうに、片や拗ねた様子で。振り返る鬼の貴人たちに、はどうしようかと迷いながらも「ええ、まあ」と曖昧な相槌を打つ。
 なるほど確かに、言われてみればその通りである。縛りが薄いとはいえ主従の関係にあるように見えた天霧でさえ扱いに辟易する様が垣間見える風間に、はあまり振り回されていると感じたことがない。根拠を考えることもなかったが、どこか懐かしいとさえ感じていたその傍若無人な唯我独尊ぶりは、かつての主に似通っている。


 自分と似たような価値観を持つ相手なら、それは確かにその心の向かうところを察することも難しくはないだろう。そこまで考えて視線を流した先では、涼しい表情で揚羽が事の帰結を観察している。
「………それで、この後はどうするの?」
 どうやら、周囲から散々に畳み掛けられて、鬼の姫は何かを諦めたようだった。深々と息を吐き出し、何かを振り切るように小さく頭を振って、風間に改めて向き直る。
「このまま北に上がり、この戦乱の行く末を見届けるつもりだ」
 飄々とした言葉に、千鶴がはっと息を呑む。戦乱の行く末とは、即ち賊軍であり敗軍である幕軍の行く末。その帰結。その、終焉。それはつまり、新撰組の面々の終焉を。
「関わった以上、最後を見定めねば、いささか気分が悪い」
「見届けるだけ?」
「当然だ。これ以上、なぜ俺が奴らに手を貸してやらねばならん」
 勤めは果たした、と。言い切れる強さは潔かった。冷え冷えとした双眸で眼下の戦乱を睥睨し、鬼の棟梁は紡ぐ。
「後は、どこへなりとも姿を消すさ。既に手配はしてある。俺がいなくとも、順次移動はできよう」
「そう……。千鶴はどうする? 今度こそ、私と来てくれる?」
「あ、あの! それなんですけど、私も連れて行ってもらえませんか!?」
 くるりと振り返った千姫に、けれど千鶴は小さく首を振ってから風間に向かって頭を下げる。
「お願いします!」
「ちょっと、千鶴!?」
 何を言い出すのかと慌てて止めようとする千姫に、千鶴は譲らない。深く腰を折ったまま、黙って返答が与えられるのを待っている。ああ、彼女も強い人だ。決めた道を譲らず、そのために自分のできるすべてを為せる人。本当に、この人はそういう人種を見抜くのに長けている。懐かしき還内府然り、龍神の神子然り。そんなことをぼんやりと考えながらがちらと振り仰いだ先では、揚羽がいかにも愉しげに双眸を眇めて眼前の遣り取りを見守っている。

***

 そういう相手は、そしても嫌いではない。自分も同じような覚悟をもって生きている自負がある。だからこそ、そうして足掻く人間を見ると、ついつい手を貸したくなってしまう。自分が手を貸してもらったときの喜びと安堵を知っていればこそ、なおのこと。
「千鶴さん。何も風間さんにお願いしなくても、お望みならばわたし達が同道いたしますよ?」
「……わたし達、というのには、俺も含まれるのか?」
「揚羽さんは千鶴さんの護衛なのでしょう?」
 男一人、女一人では千鶴さんも不安でしょうし、わたしも腕に覚えがありますし。そう言い返してにっこりと笑い、唖然と見返してくる千鶴に千姫、そして風間には飄々と対峙する。
「風間さんにいただいたお給金はそっくり残っていますし、元々持っていた金目の物を売れば、少なからず足しになるでしょうし」
 言い切ったに、揚羽はどこか諦めた様子で溜め息を長く落とし、千鶴はきょとんと目を見開いている。
「あ、あの、さん? でも、だってそれは……」
「見届けたいと、思う心は同じです。……わたし達を打ち倒して樹立された武家政治が崩れるというのなら、その最後を見届けます。それが、この最後に居合わせたわたしの、巡り会わせというものなのでしょう」
 遠く、眼下の争いを越えて何か遠いものを見つめるの肩を宥めるように叩いてやり、揚羽は視線を千姫へと送る。
「その娘の道行きが終わっておらぬのなら、最後まで従うのが、俺の務めであろう?」
「あなたも付き合うつもりなの?」
「見届けたいと、そう思う気持は同じだ」
 静かに、静かに揚羽はいらえる。
「滅びを察し、それでも滅びる側にて刃を振るい続ける姿には……重なるものが、ある」


 静穏な声に、返される問いは厳粛だった。
「お前達、ナニモノだ?」
 齎された風間のあまりに重い声に、は戦火を見やったまま薄く笑み、揚羽は「さて」とはぐらかす。
「春には盛りと咲く花も、夏にはただの浮き草に過ぎぬ……。我らの名なぞ、もはやここでは何の意味も持つまいよ。……ただの、滅び損ねた亡霊だ」
 言って嗤う声は深く、昏い。けれどその昏さを陰湿なものにしないだけの深さが、揚羽にはある。
「この先、待ち受けるのは悲報だけだろうよ。……お前には、見届けるだけの覚悟が、あるのか?」
「あります」
「あの連中が、大人しく投降するとは思わん。いずこでその凄惨な死に様を目にし、耳にするか、知れぬぞ」
「だからこそ、行かなきゃいけないんです!」
 すべてを見届けないと、何も終われない。希望も、絶望も。すべてに決着がつかない。
「……良かろう。連れて行ってやろうじゃないか」
 揚羽の意地悪い物言いにもめげずに凛と言い返した千鶴に何を思ったのか、次いで喉を震わせたのは風間だった。愉しげに目を細め、それぞれ物言いたげに振り返る顔をゆるりと見回して、告げる。
「そこの揚羽とやらがついているのなら、安全は保障されるのだろう? 女手が欲しいというなら、を使えばいい。それは、今は俺の配下だ」
 さっさと揚羽との同行も認め、これで話は終わりだとでも言いたげな風間に、あっという間に置き去りにされた千姫は慌てて条件を突きつける。
「待って! 天霧も連れて行きなさい!」
 そして、己の傍らに佇んでいた寡黙な鬼に「お願いできるわね?」と確認し、首肯が返ったのを見てから千鶴へと向き直る。
「本当は行かせたくないけど、決めたんなら、譲らないわよね」
「うん。ゴメンね、お千ちゃん」
「誤って欲しいわけじゃないのよ。ただ、これだけは約束して。必ず、見届けたら、一度は私のところに顔を見せにきてくれるって」
「……うん。約束する」
 どこまでも微笑ましさといじらしさを内包した遣り取りを少し離れた場所から見やり、そしては隣に立ち、いまだ肩を抱いたままの男を振り仰ぐ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。