朔夜のうさぎは夢を見る

花の散るらむ 〜弐〜

 無論、声の主をが間違えるはずがない。張り詰める殺気を散らす絶妙の間合いで降ってきた声に、男は戦意を納め、その音源へと深紫の瞳を巡らせる。
「今宵はこれまでにしておこう。お前のような使い手までつけるのならば、その女鬼を預けおくのもやぶさかではない」
「……御眼鏡に、適ったと?」
「光栄に思えよ、人間。俺はそいつがここまで追い詰められたのを初めて見た。次は、俺が直々に相手をしてやろう」
「楽しみに、していようか……」
 薄く笑んであっさりと受け流し、男は刀を鞘に収める。
「言われずとも、この身はかの娘を守護することを課されている。最低限の努力は、お約束いたそうよ」
「名を聞いておこうか」
 同じく納刀した風間がふと声音を改めて問えば、男はますます笑みを深くして朗じる。
「現にあらざる命なれば、この身は夢幻。――夢見鳥にて俺が冠す名があるとすれば、それは揚羽にほかなるまい」
「……なるほど。人間にしては上等と思いきや、お前はその括りから外れたモノだと?」
「亡霊、あるいは怨霊と……定義の別は、御身にとって意味をなすまい?」
「確かにな」
 対極に位置して刃を向け合う出会いながら、どこまでも同じように笑む二つの存在は、諒解しあったように喉を鳴らす。そして、背を向けて歩み去る風間に視線で呼ばれて慌てて足を踏み出したは、闇に溶ける寸前に届く声を聞く。
「好きに舞え。俺は俺で、胡蝶の見る夢を見届けようよ」
 はっ、と。息を呑んで振り返れども、そこには闇が広がるばかり。今度こそ苛立ちをあらわに呼ぶ声を追いかけながら、は変わらぬその在り方に小さく苦笑をこぼしていた。


 宿に戻った風間の機嫌は、悪いのか良いのか判別しがたい状態にあった。去り際の様子からすれば上機嫌の部類に入るのだろうが、向けられる気配は雄弁に不機嫌を語る。
「心当たりはない、というのは、偽りだったのか?」
 お前はいつから飼い主に虚言を弄せる立場になった。そう低く声をかけられて、ようやくは風間が自分と彼とが知らぬ仲ではなかったことを詰っているのだと気づいた。
「偽りではありません。わたしは、揚羽という剣士など知りませんでした」
「では、あれはどういうことだ?」
「あくまで憶測ですけれど……風間さんの当てはめた例外が、そのまま的中したということです」
 言って小さく息を吐き、は詳細を語れと促す視線に応えて口を開く。
「かつてのわたしの主です。わたしはあの方に剣を学び、戦場での振る舞いを学び、誇りを貫いて生きることを学びました」
「そして、死んだはずだと?」
「ええ。わたしは、あの方の入水を聞いたからこそ、最期の地を海中と定めたのですから」
 生き抜けるならば生き抜くつもりだった。その死をもって一門の最期を世に知らしめることこそが本分と、そう凄絶に嗤っていた彼は、その一方であくまで死を厭い続けるの意志を尊重していた。ならば俺の分まで生きろ、誇り高く、滑稽なほど惨めで醜い生への執着をもって。
 嘯いて笑い、共に最後の戦場に立った。そして彼はもはやこれまでと思い定めて海中に身を投じ、それを見届けてから確保してあったはずの退路に向かったは、予想以上の猛攻をみせる敵勢力に呑まれて想定よりもずっと早く崩壊した戦線を知った。それでも諦めきれずに切り抜けようと刃を振るったものの、道半ばにして致命傷を負い、同じ果てるならば主に近くと願って末期の力を振り絞って船べりを越えたのだ。

***

「一体いかな力が働いたかはわかりませんが、わたしが世界の枠を超えたのなら、同じようにあの方が超えていても不思議はありますまい」
「そうはありえない例外だと、言っていたヤツの言葉とは思えんな」
「事実を否定して己の推測に執着するほど、愚昧ではありたくありませんので」
 嫌味は甘んじて受け入れ、はさらりと言葉を返す。
「強さは保証します。あのお嬢さんを守ると、そうおっしゃったからには貫かれましょう」
「新撰組の隊士としてか?」
「あくまで個人的に、千姫の依頼があるからという言い方でしたから、新撰組の一員として動くことはないと思います」
「お前も、あれも、かつての主従関係を無視するのか? それともお前たちの忠義信とは、それほどに浅いものなのか?」
「そのように言われると、大変説明がしにくいのですが」
 言葉を選ぶ沈黙をはさみ、は視線をさまよわせてからゆっくりと口を開く。
「わたしたちは、一個の個人同士として出会いました。諸々の事情があって主従という形式にあてはまることとなりましたが、忠義ではなく信頼だとか、そういう感情で築かれた関係です。まして、今のあの方はわたしたちを主従と定義した“殻”と関係ないと名乗られたのですから、個として再び対峙するだけのこと」
「今夜のように、敵対することとなってもか?」
「それが互いに定めた道であるなら、道を中途半端に投げ出すことをこそあの方は侮蔑なさいます。そして、それはわたしも同じこと。あの方が一度定めた道を半端な理由で違えるなら、そのことにこそ失望しますもの」
 それが自分たちの在り方なのだと笑い、は続けた。
「どうぞご心配なさらず。戦場にて敵味方として出会えば刃を交えますが、それだけです。戦場を離れれば以前と同じに並び立つこともできるでしょうし、第一、自分も好きにやるから、わたしも好きにしていろとも言われましたし」
 このごたごたが片付くまでは、あなたを主と仰いで働きますよ。気負わず、けれど決して軽薄ではない声で宣し、は話題を変える。
「そろそろ休まれませんか? 布団を用意しましょうか?」
「……いや、いい。お前はもう下がっていいぞ」
「そうですか? では、お言葉に甘えさせていただきます」
 さすがに突飛なことばかりだったから、それらも含めて、しばらく考え事でもしたいのだろう。ゆるりと頭を下げてから裾を捌き、廊下に出てひとつ頷いたは、進路を自分の部屋とは反対にとる。適当に酒でも調達して、部屋の入り口に置いておこうと思ったのだ。


 薩摩藩に従う形である程度の仕事は請け負うものの、その内容は隠密活動が基本である。結果として、特に人目を憚って生活をしなくてはならないわけではないは、昼は比較的好きなように動き回っている。袴を穿くのは女性の装いとして一般的ではないと聞いたため、現代でも見慣れたいわゆる和装である。
 鬼の棟梁というのがどうやって収入を得ているのかは知らないが、風間が用立ててくれた着物は名品ばかり。戦闘を目的とする場合には動きにくいと訴えた結果、男装も一式貰っているが、戦闘の結果として斬られたり汚したりすることを前提としているとは思えない質の良さ。かつても、権勢の中枢にいた名残りとして過ぎるほどに立派な衣服を与えられていたが、勝るとも劣らないのだから、財にしろ趣味にしろ、まったく大したものである。
 当初は帯が一人で結べなくて鼻で笑われたものだが、装いと立ち居振る舞いの土台は完璧である。当人はそれを何とも感じていないようだったが、やんごとなき公達としての洗練した所作を常とする主に雇われていた以上、鍛えられ方も半端ではない。挙措の端々に滲むその経験は風間の眼鏡にも適ったようで、それもあっての高価な衣装なのだろうとは天霧の見解である。
「あ……」
 小遣いも与えられているし、仕事さえ入らなければ風間は風間で忙しいらしく、は自由行動を許されている。時代の変遷をしみじみと感じながら町を歩いて店を冷やかす中で、だから思いがけない出逢いがあったとしても不思議はない。

***

 小さく声を上げてからしまったという表情を浮かべ、さらに身を固めて周囲を見回す姿は、同性であるから見ても守ってあげたくなる可愛らしさがある。こういう可愛げを自分はどこで落としてきたのかと、思いながら浮かべるのは苦笑。
「こんにちは。お買い物ですか?」
「え? あ、あの、巡察に連れてきてもらって、その――」
「あんまりテメェのことを喋りすぎない方がいいぜ?」
 敵意も何もない反応に面喰ったのか、しどろもどろに自分の状況を説明しようとする少女の口を、ぬっと背後から伸びてきた腕がふさぎついでに間合いの内から引き離す。
「それと、アンタは仮にも護衛だろうが。真面目に働けよ」
「……敵意がないのだから、警戒する必要もなかろう?」
 そのまま少女から三歩ほど離れたところに立っていた銀髪の男に抗議するも、悪びれた風なく受け流される。その反応に怒りではなく呆れを返すあたり、既に彼という存在に慣れたのだろう。きっと面倒見が良くて苦労を背負い込む口だと観察しながら、は男の名前を記憶に探す。
「二番隊組長、永倉新八さんですね?」
「おうよ。そういうアンタは、だっけか?」
「ええ。ついでに確認しますけど、後ろの方は十番隊組長の原田左之助さんでよろしいですか?」
「あ? なんだ、アンタもああいう男が好みなのか?」
 警戒するよう促したその舌の先も乾かないまま世間話に興じる永倉に焦れたのか呆れたのか、溜め息をつきながら距離を詰めてきた原田を示し、永倉は「やめとけやめとけ」と手を振る。
「島原の姐さんたちを敵に回すのはよくないぞ」
「島原を利用する機会はありませんし、知り合ってさえいない相手に好意を持つほど惚れっぽい性格でもありませんから」
 ご心配なくと笑えば、背後にやってきた原田が愉しそうに声を立て、先から一歩も動いていない揚羽もまた口の端を吊り上げる。
「そういうお嬢さんこそ、買い物かい?」
「ほとんど冷やかしですけれど」
「夜闇の中では阿修羅のごときお嬢さんも、昼日中はごく普通の町娘ってことか」
「わたしは別に、あなた方が憎くて刀を握っているわけではありませんもの」
 穏やかに喉を鳴らせば、永倉の腕の中で少女が大きな瞳をいっそう見開いて驚愕を湛えている。


「なるほど。お嬢さんも、揚羽と同じ手合いか」
「あら、そう言っていただけるようになっただなんて、わたしも成長したのでしょうか?」
「さて……腕が鈍っていないのは、確かなようだったが」
 くるりと瞬かせた瞳でいたずらげに視線を流せば、素知らぬ様子で揚羽が笑う。
「いい加減、戻ってはいかがか。隊士たちが、やきもきしているようだぞ?」
「おおっと、そうだ! じゃあな、。今度は俺の相手をしてくれよ!」
「その機会が、酒の席か試合の場であることを祈っています」
「まあ、そうなってくれりゃ一番だがな」
 にぎやかに隊列に戻る永倉を、ゆったりと踵を返した原田が追いかける。
「あの!」
 そして、永倉の腕から解放されて自由を取り戻した少女は、逡巡をみせはしたものの、同じく隊列に戻る前にに声をかける。
「私、雪村千鶴といいます」
 名乗ってぺこんと頭を下げた少女の名を、もちろんは知っていた。標的に関する情報を集めるのは、基本中の基本である。呼ぶ機会もなく、あえて呼ぶこともないからと放置していたのだが、どうやら少女はそれが気にかかっていたらしい。
 丁重な挨拶は、まっすぐな性格が垣間見えるようで微笑ましい。本当に、自分はこの手の可愛げをどこで失ったのだろうか。
「ご丁寧に痛み入ります。わたしはと申します」
 以後お見知りおきを。そう返してゆるりと腰を折る所作は、かつての主の目に見苦しく映らないよう、町中で交わすものとしては過ぎるほどに丁寧なもの。風間に付き従って襲撃をかける姿との落差がどうにも埋まらないのか、困惑を浮かべながらも千鶴はその流麗な所作に感嘆の息をこぼす。
「早く真理にお触れなさいな。その向こうであなたがどこに至るのかはわかりませんけれど」
「え?」
 ふと、唐突に朗じられた言葉の内容に面喰ったのだろう。ぱちぱちと瞬きを繰り返す千鶴に、しかしは嫣然と微笑むのみ。
「知らぬ存ぜぬを貫き通すには、あなたはあまりにも因縁がありすぎるのですから」
 そして、言いたいことだけを言い置いて踵を返し、は擦れ違いざまに落とされる呟きに目笑する。
「被虐趣味を持つと思いきや……加虐の愉悦にも目覚めた、か?」
「これも因縁というもの。関わったからには、真理を見定めたいだけです」
「畢竟、俺もお前も、救いようのない物好きというわけか」
 愉悦に揺れる声は、包み込むような穏やかさをも孕んで背中に遠ざかる。その性格からして、興味と関心をきっかけに事に手出しをしただろうことは察していたが、これで推測は事実へと格上げされた。後は、互いの立ち位置から、それぞれに世界を俯瞰するのみ。
「どうぞ、無闇に傷を負われませんよう」
「お前も、な」
 人波に身を紛れ込ませながら、はひたすらに笑いを堪える。世界の枠を超え、立場の違いに隔てられてなお変わらない自分たちの在り方に、叶うなら快哉を叫びたいほど気持ちが高揚していた。そうして自分を慈しんでくれるから、自分は彼という存在を忘れられないのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。