朔夜のうさぎは夢を見る

とこしえの先までも

 知盛と日番谷、と乱菊が向き合う形で座っているため、身を乗り出す乱菊の姿はからすれば非常に圧巻だ。豊満な肢体も、煙る香りも、どこもかしこも官能的。しかしいやらしさを微塵も感じさせず、いたずら気な表情が似合うのだから本当にずるいし、少なからず安心する。その姿からは、かつての日々において、また今日の道中においてそこかしこで見かけた、知盛に対しての色目がまったく感じられないから。
「……どういう、とは?」
「なーに今さらしらばっくれてんのよっ! なぁに? もしかしてアンタ達、結婚してたの?」
 少なからず関係のないことに思考をもっていかれていたは、耳に飛び込んできた言葉に、飲みこもうとしていた汁物をうっかり気管へと持っていきかける。そのままむせ込んでしまい、息苦しさから真っ赤になって背を丸めるのを知盛に軽く叩いてもらうのも恥ずかしいし、視線を向けてきた乱菊に「やだ、当たり?」と実に楽しげに問われるのもいたたまれない。
「とりあえず、松本。お前はもう少し抑えろ」
 なんとか正しく口の中身を飲み込み、隣から差し出された湯飲みに必死の思いで口をつける斜向かいで、日番谷がしみじみと溜め息をつきながらまず己の部下を諭す。
 やや不満げな口調で「えー?」と反論するのは、いつもの遣り取りの一環なのだろう。実に慣れた調子で日番谷が乱菊を呼べば、迷いなく「はぁい」との承諾。そして、続けての矛先は知盛へと。
「で、
 呼びながらちらと視線をに向けたのは、きっと今度は意図的に。さすがに身構えることができていたため持ち上げた視線で淡く苦笑を返し、は日番谷の言葉の続きを期待する。
「頼むから、不意打ちになるようなことがあるなら、最低限でもいいから説明しといてくれ」
 としても、それは切に願いたいところである。


 ああ、けれど。そういえば、言葉が足りず、説明が足りず、いつだって自己完結をするのが彼という人物であったか。かつてはその知盛の思考をほぼ余すことなく読みとれる重衡やら家長やらがいてくれたためなんだかんだでフォロー体制ができていたが、思い返してみれば将臣もまた同じようなセリフを何度となく口にしていた。
 ふと過去に感情が触れれば、そのままさざ波のように胸に切なさが広がっていく。もう戻れない。それは仕方ない。自分も知盛も、もう生死の境を越えてしまった。あれからどれほど時間が隔たったのかもわからない。彼がどこにいるのか、生きているのか死んでしまったのかもわからない。けれど、どうか幸せであればいいと思うし、幸せであればよかったと思う。
 自分も知盛も、最後はなんだかんだで笑っていた。だから、あの人も、あの人達も、みんなみんな笑っていてくれればいいと思う。今も、今際の時も。
 感傷に呑まれて勝手に追憶に耽るべき場ではないとわかっていても、感情を制御するのはいつまでたっても難しい。ぐっと湯飲みを握りしめ、俯きながら口をつけることで表情を束の間隠す背中を、宥めるように大きな掌が撫ぜる。
「コレと、同じことをしたまでだ」
 そして紡がれたのは、実に端的な説明。
「同じこと?」
「名の意味を……由縁、を。知る者に、それとわかるように纏おうと思った」
 復唱した日番谷に淡々と言葉を重ね、それから知盛はそっと瞳を細める。
「“”と。その音を聞けば、俺がコレに辿り着けずとも、俺に辿り着いていただけるかと思って、な」
 仄かに苦笑を滲ませて、けれどその可能性を疑うことなく信じていたのだと雄弁に語る誇らしげな声で。紡がれた理由があまりにもひたむきで、は申し訳なさと嬉しさとで、自分がどんな表情を浮かべているのかをまったく自覚できずにいる。


 今度は先ほどとは違う理由で湯飲みを睨む顔を上げることができなくなってしまったをちらと見やり、楽しそうに愛しそうにそれを見やる知盛を見流し、日番谷は吐息に絡めて「なるほどな」と小さく呟いた。
 しかし、日番谷はそれで納得したように笑って口を噤んだが、乱菊はそれでは終わらない。
「アンタはの名前、あの後どっかで聞いたりしなかったの?」
 日番谷を見やり、知盛を見やり、それからを見やって実に不思議そうに首をかしげる。
「……ない、と、思います」
 まあ、疑問はもっともだろう。も、振り返ってしみじみ不思議に思う。入院先であった綜合救護詰所は知盛の職場であり、最後に診察してくれた卯ノ花は知盛の上司だ。知盛がずっと“”という姓を名乗っていたのなら、呼ばれるべき場にこそ居合わせていたのに、本当に、思い返しても聞いた記憶がないのだ。
「通院していた時のことは、すっかり忘れちゃってたわけ?」
「………その、忘れていたわけではないのですけど」
 次いで投げかけられた疑問には、歯切れの悪い答えしか返せない。
「けど?」
 そして、乱菊がその曖昧な答えを見逃す理由もない。
「わたしにとって、知盛殿は、知盛殿でしかないので」
 誤魔化せる気配がないため諦めて告白したのだが、あまりにもあまりな理由であることは自覚できていた。

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。