朔夜のうさぎは夢を見る

とこしえにも似たるもの

 朦朧として今にも鎖されそうな意識の向こうに、確かに感じたのは恐ろしくも懐かしい蒼焔の気配だった。霞がかる視界の半分は地面に埋め尽くされていたが、燻る菊花の仄かな気配と、凛と響く声が自分を抱きとめてくれた存在を証している。
 やっと届いたのだ。その瞬間が戦場であり、確信を相手に差し向けてさらに固めるよりも先に意識が途絶えてしまうだろう事実はもどかしかったが、何よりも歓喜と安堵が深かった。
「“鞘”殿は、ようやくお目覚め、か?」
 あの日、ようやく手が届くと思い、けれど目覚めてみれば結局はすり抜けたあの夜。夢の向こうでのんびりと笑っていた遠い神は癪だったが、その預言に寿ぎを与えられているのだという事実を察せないほど知盛は鈍くもなかったし、その僥倖に感謝を覚えられないほど傲慢でもなかった。
 けれど、実感できなければ、わからないのがヒトの業。だから、こうして待ちわびた気配に触れ、焦がれ続けた声を聞き、そしてようやく安堵している。
 ぴくりと震えて、戦場にあるというのに泣き出しそうに揺らいだ気配が、呼吸ひとつで芯を取り戻して凛と張り詰めるのを心地良く感じ取る。
 ああ、大丈夫。戻ってきた。彼女はやはり自分の知っているあの娘で、魂の奥底から記憶を引き出せるほどに、強く強く自分との約束を覚えていてくれた。あの願いは、自分の独りよがりではなかった。
「――知盛殿」
 息を吸い、また吐き出し。言葉を色々と探したようだったが、しかし結局、彼女はあまりに耳馴染んだ呼びかけを、怯えるように紡ぐだけ。その音がかつてと同じく自身の意識を水底のような静謐さにいざなうのにそっと唇を綻ばせ、知盛は静かに意識を沈めた。


 逆巻く力の中心にいるのは、死神でさえない娘と、意識を失って倒れているらしい死神。だというのに、その力の渦に、隊長格である日番谷も乱菊も、踏みこむことができずにいる。
 唇が動いたようだが、今度は彼女が何を言っているのかは聞こえず、その動きからでは単語を読みとれなかった。ただ、どうやらまだ意識のあったらしい男が、そのタイミングで完全に昏倒したのだろう。娘の細い腕がまるで傷つけることは許さないとでもいうかのように男の背をしっかと抱き締め、天を睨む瞳は威圧感を増す。
 それから展開されたのは、荘厳ささえ感じさせる、絶対的な殺戮の画であった。
 逃げようとする対象に微塵の慈悲も与えず、さらにさらにと手を伸ばして、蒼焔は天を覆い、敵を喰らう。
 あまりにも一方的な力の行使は、善悪の基準など必要とせず暴力でしかありえない。そもそも、蒼焔を操る彼女に、刀獣を狂気から解き放とうとか、虚の罪を雪いで昇華させようとか、そういった類の意思はまるで感じられない。
 あるのは、怒りと覚悟の色のみ。
 いかな罪であろうとも負うのだと。己が展開する地獄絵図のすべてを余さず視界に焼き付ける、それは覚悟。そして、その力を行使する先に立ちふさがるのがたとえ何ものであろうとも、全力で排除するだけだと雄弁に語る、燃え盛るような深い憤怒。
 おそらくは彼女の視界に映るすべての敵影を葬り去ったのだろう。雪のように、花のように、蒼焔がほろほろと散りながら、掲げた指の中で元の小太刀へと姿を戻す。そして、柄を握り締めた右手を額に当てて、何かに耐えるように呟く。
「神よ、」
 あなたの慈悲に、深く、感謝を。
 小刻みに揺れる声音は、嗚咽をこらえていたからなのだろうと。日番谷が知ったのは、そのまま力を失った腕が地に落ちるのを狙ったかのように降ってきた虚を背後から両断して、彼女の傍らに膝をついてからのことだった。


 当面の脅威さえ取り払われれば、戦後処理でまず力を発揮するのは四番隊の面々だ。周辺の霊圧を探ってもう敵はいないと断言した日番谷に促され、上空に残っていた綜合救護詰所警護の面々も次々に救護任務に加わっていく。
 元よりの怪我人の応急処置は終わっていたのだろう。背後に庇われる形となっていた綜合救護詰所からも応援の隊士が加われば、負傷者を捌くのはあっという間だった。
 良くも悪くも、この数カ月で瀞霊廷は混乱やら騒ぎやらへの対処の仕方が格段に向上しつつある。褒められた事態ではないのだろうが、そのおかげで騒ぎの収束から十日ほどで、仮にも一隊を預かるものがふらりとリハビリを兼ねた短時間勤務中の友人の様子見に出かけられるのだから、あまり声高に文句を言えないのが日番谷のもどかしい葛藤なのだが。
「で、どうなってんだ?」
「どう、とは?」
「この期に及んですっとぼけるつもりかよ」
 細かな傷こそ多かったものの、手当さえ受けてしまえば知盛が回復するのは早かった。重傷だった鎖結と魄睡の傷は、どうせ鬼道では治せない。物理的な治療を施して薬と包帯を巻き、霊力を最低限に回復させるための術を行使されて一週間も経てば、日常生活やら庶務の遂行にはまったく差し支えない。


「結局、サヤがあんたの探していた相手だったってことか?」
「“サヤ”はそうではなかったが、アレに行きついたのは、事実だな」
「どう違うってんだよ?」
 この最後の大騒ぎにおいて、十番隊から重傷者は出ていない。それでも、綜合救護詰所に収容された面々はここに来る前に一通り見て回っているし、隊舎には副官を置いて事後処理を一任している。日番谷が席を空けていても問題がない程度には、事後の混乱さえ収まりつつあった。
 ちょうど休憩に入るところだったのだと、つい先日の夜に言葉を交わした渡り廊下に誘われ、心地良い風に吹かれながら二人はぽつぽつと言葉を交わす。はぐらかすような、からかうような、甘えるような。ゆらゆらと揺れる声音が実に気安く寛いでいるのを敏感に聞き取り、呆れと安堵を混ぜ合わせた複雑な溜め息をひとつ。
 妙に張りつめられているよりはもちろん、この方がよほど彼らしくて日番谷としても嬉しいのだが、事情がわからない以上は胸のつかえがすっきりしない。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。