朔夜のうさぎは夢を見る

とこしえにも似たるもの

 あでやかで鮮やかで、いっそ暴力的なまでの美しさだった。
 戦闘の一端を美しいなどと評しては不謹慎だろうが、それしか形容が思いつかなかった。浅く刻まれた眉間の皺が、彼が労せずその力を揮っているわけではないことを雄弁に伝える。時を経るごとに集中力が削がれていくのだろうか。徐々に、徐々に。彼を取り巻く水塊を指揮する動きに焦りが滲み、指揮と実働との間に齟齬が生まれているのが、見てとれるようになってきた。
 ふ、と。それはごくわずかな動きであったが、それまでとはあからさまに一線を画した行動だった。何かをうかがうように向けられた視線が、眼前の敵を通り越してその奥を見透かす。つられるようにして視線を向けたのは、サヤだけ。それ以外の誰一人として気づいていないか、あるいは気にしていない行動に意味があったと知れたのは、彼が向き合う敵の背面に現れた、さらなる絶望の影ゆえに。


 空気の軋む音がした。死神ではないサヤにさえ感じ取れるほどの、圧倒的なおぞましさが足元を駆け抜けていった。青空は無粋な罅で穢され、そこから顔をのぞかせるのは招かれざる客人。
 彼と共に戦線に立っていた、そして彼の背中へと戦線を離脱してきていた死神達から、悲鳴と呻きが上がる。無理もあるまい。主を探す内に理性を失った斬魄刀を捌き、どさくさに紛れてこぼれてくる虚を相手取るだけでも多大な戦力の消耗を強いられているのに、畳みかけるようにして大虚の出現だなどと、歓迎できるはずがない。そして、彼らにはその背を守るという責務があるのだ。
 激化する戦闘から脱落する影はあれど、加わる影はない。早く、早くどこかから誰かがこの状況を察して駆けつけてくれない限り、この場にこれ以上の戦力はない。彼らも決して弱くはないが、弱くはない敵を数多く切り伏せていれば、少なからず消耗するのが覆しようのない摂理。
 だから、それもまた摂理の一端。動きの鈍りが顕著になっていた彼がついに態勢を大きく崩すほどの一撃を受け、ゆらりと倒れこんだのも、また。


 決定打となった一撃は、右の上腕に。それによって大きく崩れた姿勢を追うようにして、続く二撃は正確に鎖結と魄睡を打ち抜きにかかる。かろうじて身を捩ることで直撃は避けたが、斬魄刀を解放し続けることはもはや無理だった。
 ここで退いてしまえば、少なからず盾となっていただろう能力が消えること。せめてわずかにでも長く、と。意地なのか矜持なのか執着なのかもわからない思いもむなしく、落ちる身を包むようにして流れていた水の紗幕が薄れていくのをぼんやりと眺めている。
 水が見える。青空が見える。仰ぐ視界に躯も船影も見えないが、逆光の上空に蠢く虚達はあの瞬間の水面に見えたすべてを彷彿とさせる。けれど、そこに見慣れた剣舞がない。
 無論、それで構わないとも。
 傍に置きたかった。誰よりも近く、手の届くところに。けれど、巻き込みたかったわけではないのだ。
 あの娘の戦う姿は美しかった。恐怖を抱え、覚悟を迸らせ、がむしゃらに戦場を駆ける姿はひたむきでいとおしくて、悲しかった。
 守りたかった。それも知盛の真実だった。ただひたすらに己が腕の中に閉じ込めて、悲しいもの、醜いもの、汚いもの辛いもの。それらすべてが目に入らないようにして、真綿にくるむようにしてあの娘を綺麗なままにしておきたいとも思っていた。背を預けるからには戦場までもと、そう定めた思いの裏で、いつでも真逆の願いが息を殺しているのを感じていた。


 覚えていないというのなら、選択肢の一方が強制的に破棄されたということ。それはそれで構わない。不審そうに見やられるのは耐え難い苦痛だったが、すべてが振り出しに戻ったと思えば耐えきれないほどでもない。いずこにあるのかもわからず、永劫に見失ってしまったのかと恐怖していたかつてに比べれば生易しい。
 手が届くなら。声が届くなら。もう一度、やり直せばいい。彼女の意識が自分を忘れたとしても、その魂が同じであるなら、自分達はきっとまたやり直せる。そして、今度はかつて殺していた願いを追いかけてみようと思いなおしたのだ。
 戦場で涙を噛み殺すことのないように。背を預ける代償とばかりに、戦場に彼女が散る可能性に懊悩することのないように。
 今度こそ、守ってやれればいい。偽りの力だとしても、そのためにと揮うのであれば神もまた納得しよう。たとえ世界を超えても、あの神が神子に甘いのは変わらないと、その事実は既に確信したのだから。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。