朔夜のうさぎは夢を見る

とこしえにも似たるもの

 何か知っているのか、と。問おうと思い、躊躇って結局サヤは口を開けなかった。強張ってしまった舌先がうまく動かない。息がうまく吸い込めない。声の出し方さえ思い出せなくて、透明な視線が怖くなる。踏みこむことができず、曖昧な可能性にたゆたう不明瞭な安寧に甘んじる己を、余さず暴かれているように感じて。
「私は、何も知りはしない」
 だというのに、心の中を読んだかのような絶妙な間合いで宣告され、今度こそサヤは声を失った。
「お前の過去など知りはしない。私は斬魄刀としてそれなりに長く時間を過ごしているが、それは“この世界”に限った話。尸魂界以外の世界のことは、わかるはずもない」
 なるほど、それはごく当然のことである。氷輪丸は、日番谷の魂に住まうもの。ならば、日番谷の魂を通じて知る以外に、下界のことなど知る術はないだろう。筋違いの期待を寄せた己が恥ずかしく、それほどに実は過去を知ることに拘泥しているのだと思いがけず自覚させられ、サヤは何とも複雑な思いで氷輪丸から視線を外してしまう。
「可能性に行きあったと思うのなら、確かめてみてはどうなのだ?」
「可能性に行きあったからこそ、恐れて、身動きが取れなくなっているのですよ」
 返す言葉に棘が孕まれるのは、もはやどうしようもなかった。


 ああ、そうさ。そうともその通り。確かめてみれば良い。そうすれば、無駄に煩悶することもなく、無駄に期待して勝手に失望することもなくなる。だが、確かめてしまえば、希望に縋って夢を見ていることもまた、できなくなってしまうではないか。
「どうするのが正しいかなど、わかっています。でも、正しい選択ばかりを選べるほど、わたしは強くありません」
 時に過ちを過ちとわかっていて選び取るのがヒトの性。感情を持つモノの業。もちろん、過ちであるからにはそれを正しいのだと言い張るつもりはないが、そうせざるを得なかった誰かを無情にただ責め立てるほど、サヤは感情による理不尽を否定できない。
「ようやく行き着いた可能性なんです。ならば、もし破られるのだとしても。……もう少しだけ、まどろんでいたいのです」
 呻くように、振り絞るように。だって、他に聞くものはない。目の前には静かに佇む斬魄刀が一振りのみ。もしかして、こうしてどうにもならなくなった己の心の膿を見透かして、あの優しい隊長は彼の魂の半身を貸してくれたのだろうか。


「夢が、可能性が、優しくて美しければそれだけいっそう。縋る思いが強くなるのが、人という存在の性なのですよ」
 斬魄刀は死神の魂から生まれ出でるモノ。だが、ヒトのヒトたる側面がほぼ垣間見えない、まるで神のような存在。特に彼は、ヒトとしては眩しいほどにまっすぐで高潔な精神を持つ少年を対としている。こんな、醜くて愚かで矮小な思いは理解不能だろうかと。恐れながらも告げてみれば、思いもかけずあどけない声が降ってくる。
「では、まどろみ、まどろんだ先で真理に行きつくことには、納得しているのか?」
 問いはまっすぐでいっそ稚くて、なぜかどこか嬉しそうだった。虚を突かれてうっかり視線を跳ね上げてから、けれど問われた内容に否やはなかったので、サヤは素直に顎を引く。
「いずれ、答えは直視しなくてはなりません。その覚悟は、持っているつもりです」
 もう少し、あとほんの少しだけ。それが醜い言い訳であるとわかっているのと同じくらいに、いずれは夢から覚めなくてはならないともわかっている。いつまでも縋りつくのではなく、勝手とはいえ少し甘えて、同じ孤独と渇仰を抱える存在がいることにもう少し安堵できたら、次に進める。
 たとえ苦しくとも進むことをこそ選べるほどには、サヤはいつかどこかで自分を“サヤ”と呼んでくれた誰かに、強く深く焦がれている。


 凛と返された覚悟の姿に満足げに目元を緩めた氷輪丸に、サヤは率直に疑問と不審を載せて対峙する。
「あなたは、何を知っているというのです?」
 そもそも、彼がここを訪れた思惑は何なのだろうか。日番谷の差し金か。あるいは、氷輪丸自身の意思なのか。確かめず、己の推測のみで終わらせておこうと思ったのは、可能性にまどろんでいたかったからではなく彼らの気遣いを無碍にしてしまう気がしたから。
 だが、問答を顧みる限り、どうやら昼間の日番谷との遣り取りにまつわる訪問というわけではないらしい。ならば自分はとんでもなく自意識過剰な思い違いをしているのかもしれない。そう思い至って視線に険と疑問の色を濃く載せれば、氷輪丸は銀色の双眸に切なげな光を滲ませる。
「言霊としての名を呼んでくれる存在を見失った、失意と不安を知っている」
 それはきっと、サヤの立場からでは垣間見ることさえできなかった、今回の騒動の一面だろう。日番谷と氷輪丸の間で何があったのかは知らない。それでも、こうして氷輪丸が実体化している以上、何がしかの形で巻き込まれたのは確かなのだ。
「主が何を感じたのかはわからないが、少なくとも私は、お前にもあの男にも、“呼ばれる名”に託す人並みならぬ思いを感じている」
 小さく小さく、口の中で驚愕の声を飲み込んで、サヤは大きく目を見開いた。自分が“サヤ”という名を纏う理由は、きっと日番谷から聞いているだろう。だが、あの青年もまたそんな特殊な事情を呼び名に篭めているというのだろうか。そんな話は聞いたことがない。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。