朔夜のうさぎは夢を見る

とこしえにも似たるもの

 少ない手札を繋ぎ合わせて、導き出す希望は実に単純明快。すなわち、彼はもしや、サヤと名乗る自分を知らなくとも、そうなる前の自分を知っているのではなかろうかと。
 だって、そうすれば比較的スジが通る。名を見ても何とも思わなかったのだろうに、顔を見た途端に驚愕に呑まれたこと。自分がこうして抱き続けている奇妙な既視感。あの男と知り合いではないのかと問う、縋るような祈るような、日番谷の様子。
 だとすればとても素敵なことだと思うし、だとすればとても厄介なことだと思う。
 もしこの夢想が真実であるのなら、サヤは探し求めていた己の過去を手に入れられるし、知盛は瞳に宿した絶望をもしかしたら払拭できる。友人思いの日番谷の願いも、成就する。だが、夢想が偽りであったなら、どうだろう。
 ようやく求めた答えに辿り着いたのだと、そう信じて伸ばした指先が裏切られた時、自分達は果たしてその現実に耐え切れるのだろうか。
 縋りつきたい気持ちを繋ぎとめ、殺してなお余りあるこの恐怖こそが、きっと自分達に共通する根底の思いだろうとサヤは自嘲する。だからあの男は動揺を殺して絶望を飼いならし、日番谷は願いを沈めて躊躇いを身に纏っていた。だから自分は、確かめることを恐れて目を逸らし、もう少しだけと言い訳をして、踏みこむことから逃げている。


 危うい均衡は、しかし確かに均衡であればこそ、誰の心をこれ以上傷つけることもない。可能性が可能性であり続けるというのは、残酷なようでいて実はとても慈悲深い。
 真理は明かされない。だから、よかったと声をあげて泣き叫び、優しい安寧に辿り着くことはできない。
 真理は暴かれない。だから、願い、夢見たそれを否定されることに慟哭し、奈落の絶望を直視することにはならない。
「待つことしかできないなんて、つまらない女」
 これまでのように、本当に、可能性にさえ辿り着けずに待ち続けていたのとは違う。目の前に可能性がやってきたのに、手を伸ばすのを恐れているだけだなんて。
「なれば、踏み出してみればいいのではないか?」
 自嘲と諦めと、それから自己憐憫がいくばくか。見苦しい言い訳だと己を嗤いながら吐き出した独り言には、返されるはずのなかった答えが低く。
「確かめることは、決して無駄にはならないだろう」
 あまりにもまっすぐな正論を淡々と紡ぐのは、開け放たれた窓枠に腰掛ける玲瓏な気配。しんと張りつめた、冬の氷原。


 身を震わせたのは一瞬で、警戒を解くのも一瞬だった。殺されていればこそ気付かなかったが、意識を向ければ殺しきれないその荘厳な気配に背筋が自然と正される。
「氷輪丸殿、でしたね?」
「いかにも」
 膝を使って向きなおり、正面から見返せば透明で静かな銀色の視線がまっすぐに注がれる。
「お一人ですか?」
「そうだな」
 こんな時間に、だとか、仮にも元から開いていたとはいえ、女の部屋に窓から勝手に入るのはどうだろう、とか。およそ一般常識に照らし合わせて問うべき内容はすべて割愛し、サヤは目の前に佇む斬魂刀にとっての常識をこそ問いかける。
「よろしいのですか?」
「斬魂刀たる私が、主のないままに立ち回るのは、おかしいか?」
「おかしい、とは申しませんが」
 違和は、ある。余計な口出しなどはせず、ただ主たる日番谷の背に控えて静かに佇んでいる姿しか目にしたことのないサヤにとって、主のないところで自我に従って行動する姿は、ひたすらに新鮮なのだ。


 素直に驚愕と意外の念を返すサヤに特に気を悪くした様子もなく、氷輪丸ははたと瞬いてから口を開いた。
「名は、鎖だ」
 放たれる声は決して大きなそれではなかったが、静かに張り詰めた威厳を漲らせていた。すっと表情を引き締めたサヤに、氷輪丸は淡々と言葉を降り積もらせる。
「呼びかける音に意味を載せ、言霊となして死神は我ら斬魄刀の力を解放する。解号は、言霊を補佐するための手段にすぎない」
「それは、先日の問答の続きですか?」
 唐突な言葉の内容は、さほど難しいものでもなかった。しばし考えてから問いかければ、しかし氷輪丸は「そうでもあるが、お前と主のそれではない」と首を振る。
「自ら望み、新たな鎖を纏うものもある。鎖となることを厭い、鎖にならない名を持つものもある。望まぬ鎖に縛られるものもある」
「……斬魄刀たるあなたは、元より纏うその名を、鎖として選んだ存在」
「いかにも」
 目的の読めない言葉ではあったが、言わんとしていることは理解できる。だから氷輪丸が口を一端噤むことによって生まれた空白を先んじて埋めてみれば、ほんの少しだけ満足げに細められた双眸が、優しくサヤに向けられる。
「お前も、そうであろう?」
 他の誰が呼んでも鎖にはならないが、意味をもって呼ぶ誰かが在ることを知っている名を纏っている。その名を呼び、その名を鎖となせる相手のことを、探している。
「よってお前は名を覚えていないのだろう。お前の持つ、真の名もまた鎖。だが、お前にとって、より鎖としての意義が重いのは“サヤ”という音」
 まるでサヤの知らない、求め、恐れてやまない記憶の向こう側を知っているとでもいうかのように、氷輪丸は確固たる断定口調で淡々と言葉を綴っていく。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。