朔夜のうさぎは夢を見る

とこしえにも似たるもの

 足音も微かに凛と歩み去る背中を横目に見送って、知盛は深く長く息を吐き出した。
「さすがに、高級料亭のお嬢さんは雰囲気が違いますね」
「料亭?」
 治療に用いた最低限の道具も、今回ばかりは補佐の女性死神が片付けてくれる。無理だけはするなと散々に念を押された上での仕事であることは自覚しているので、遠慮はしない。そういう役回りだと、納得している。
 それでも、常は一人で立ちまわっているため、患者が退出したことで気が緩む癖は抜けなかった。体調が万全でないこともあり、呑みこみきれなかった溜め息を後悔するよりも早く、与えられた感想が意識を奪い取る。
「名前ぐらい聞いたことありませんか? 猫柳っていうお店です」
「……ゆえ、柳ヶ瀬、か」
「店主の娘さんだそうですよ」
 問いかけには答えないまま関心のあった部分にのみ反応を示した知盛には頓着せず、彼女はてきぱきと手を動かしながらとめどなく口を動かす。
「西一番街の、有名な料亭だそうです。隊長達の御用達でも有名で、特に日番谷隊長のファンの間では、あのサヤさんって、すごい有名なんです」
 くすくすと笑う彼女は、確か六番隊隊長のファンだと公言してはばからなかったはずだ。十番隊隊長の実力は素直に尊敬しているが、オトナの男が好きだと熱く同僚の女性陣と語り合っているのを聞いたことがある。
「日番谷隊長のお気に入り、と?」
「はじめのうちは、日番谷隊長に悪い虫がついた、って大騒ぎだったんですけどね」
 まあ、無理もない話だろうと知盛は納得する。五番隊副隊長や十番隊副隊長との仲を邪推する声も少なくないが、彼女らには他の女性陣を圧倒してなお余りあるだけの実力がある。
 自分があからさまに敵わない相手に敗北するならば、自身への言い訳も存分にできる。だが、サヤは死神でさえない。そんな相手に負けるのは死神としてのプライドが許さなかったのだろうと、察するのは実にたやすい。


 死者の集う世界とはいえ、現世と何も変わらないとはずっと抱き続けている知盛の感慨だったが、妙なところで納得を後押しする場面にばかり出会い続けるのはやはり不思議だった。生きていても死んでしまっても、心が動く状況にある限り、人は喜怒哀楽に振り回される。妬み、羨み、ひがみ、恋うて焦がれて、誰かを愛する。
 日番谷が彼女を気にいるのは自然なことだろうなと、実に素直に知盛は感じていた。実年齢など知りはしないが、幼さを残しながらもすさまじく老成している十番隊隊長は、その両面の落差を隠すことなく曝け出せる場所に飢えている。
 聡明であればこそその背に翻る羽織の意味を深く理解しており、誠実であればこそ、その重みを微塵も逃すことができずにいる。


 あの娘こそは探し続けた存在。最後の砦。無二の楽園。絶対の唯一。
 纏う名は違っていたし、“”という姓にもまるで無反応だった。見知らぬ相手を探る視線に虚飾の色はなく、彼女が知盛を“知らない”ことは自明だった。それでも、あの“柳ヶ瀬サヤ”こそが“”だと、知盛は確信している。
 何がどうしてこんなことになっているのかなど知らない。因果になど興味はない。ただ、探し続けた存在が己と同じ世界で、同じ時間を刻んでいるということ。その現実だけが欲しかった。
「診療結果報告書、作りましょうか?」
 一通りの片付けを終え、振り返ってきた補佐役の女性死神の問いかけに、知盛はそれまでの思索を振り払いながら一つ首を横に振る。
「それは、俺の仕事だろう。……片付けのみ、頼めるか?」
「わかりました」
 辿れば辿り着く、と。さて、神よ。いったいその預言は何を示してのものなのか。
 おしゃべりな性質なのだろう。決して彼女が知盛の事情や関心を知っていたとは思えないが、期せずして得られた情報は実に有益なものばかり。それに対する謝恩の言葉を伝えても違和感しか与えないだろうが、無言で立ち去るには今の知盛はとても気分が良い。
「助かった」
 ゆらりと足を踏み出しながら、実にやわらかくほどけていることが自覚できる声で、だから知盛は曖昧にぼかした感謝の言葉を紡ぐ。
 そのまま踵を返した背中に遠慮なく突き刺さる「珍しい」と雄弁に物語る視線は振り返らず、目指すのは隊主室。
 欲しかった現実はあと一歩の目と鼻の先まで迫り、わけのわからない預言は現実味を帯びてきた。そして今の自分になせることは、いまだ不確定のその可能性を確かな近未来にするために、彼女の存在を守りぬくこと。そのために構うなりふりなどないという事実を、知盛ははきと自覚している。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。