朔夜のうさぎは夢を見る

とこしえにも似たるもの

 動揺と衝撃の由縁は明かされないまま、サヤがその女性職員によって診療の前準備を整えられている間に取り落とした書類の回収と診察の準備を整えたらしい青年は、低く淡々とした声で「四番隊第十五席、知盛という」と告げて目礼を送ってきた。
 専門家と聞いていたからにはかなり大々的な治療を想像していたのだが、名乗って後、知盛が要求したのは手首に触れることと、傷口を見ることのみである。
 肘の少し上から二の腕にかけて走る傷は、さほど大きなものでもない。ただ、じわじわと滲み続ける血が止まらず、だというのに熱を持たずにむしろ氷でも当てられているかのように冷え続けているという不可思議が継続するのみ。
「治りますか?」
 見やり、手をかざして何かを探り、再び手首を取ってじっと考え込んでいる知盛に、沈黙がなんだか居たたまれなくなったサヤはそっと問いを差し向ける。
「大丈夫ですよ。十五席は、毒治療では万能ですから」
 にっこり笑って請け負ってくれた女性職員の言葉にちらと視線を上げ、知盛もまた言葉を添える。
「これまで、死神以外で治療をしたことがないゆえ、加減を掴むのが難しい。よって、今回ですべてを引き受ける、というのはできかねるが」
 ゆるゆると紡がれる説明に合わせるように、握られている手首に熱が篭もり、触れた個所から清涼な感覚が腕を伝って全身に広がっていくのを感じる。


 ろくに霊力を持っていないサヤには死神の扱う斬魄刀も鬼道もまったく未知の存在であるが、今の自分が恐らく鬼道の類を行使されているのだろうと察するのはたやすかった。
「広くはないが、根が深く、少々面倒な状態だ。吸い出しながら、並行して傷を埋めていく」
 言いながら握っていた手首を持ち上げ、傷口を正面に見据えて知盛は空いていたもう一方の掌をかざす。
「完治は請け負おう」
 ただし、と。傷口に注がれていた深紫の透明な視線が、サヤの双眸をまっすぐに射抜く。
「重ねられては、手に負えなくなる。……血の香に魅かれる獣に、重々気をつけられるよう」
 告げながら苦しげに歪められた視線は、自分を通り越して何かを憂えているのだと。察することはできても見つめる先がまるでわからないサヤには、真意の読みにくい忠告を字面通りに受け止めることが精一杯だった。


 一応薬を処方するからしばらく待つよう伝えつつ、知盛は実に手慣れた所作で傷口に包帯を巻いていく。特にすることもなく手の動きを追いかけながら、サヤはなぜか背筋が強張っている己を自覚する。
 恐ろしいわけでは、ないと思う。
 接客業を生業とする店で働いている以上、たとえそこが客を選ぶ類の場所だとしても、性質の悪い相手に遭遇することには慣れている。居丈高な男も、色欲にばかり目がくらんでいる男も。
 だから、逆に言えばサヤはそういった類の人間を見抜く鑑識眼めいたものをある程度以上身につけているという自負がある。そして、その勘が告げるのだ。彼は、そういった類の人物ではないと。
 色といえばいいのか、それともこれが気配というものなのか。そう、たとえば、強いて言えば知っている誰かに似ている。脳裏に知る限りの人物像をとめどなく浮かべながら、サヤは記憶をさかのぼる。
 包帯を巻き終わったというのにまだ何やら作業が残っているらしい知盛は、ぼんやりと見つめるサヤのことはまるで気にした風もなく、ただ俯くばかり。


 包帯の上から手をかざして何事か術を施したらしいところで、ちょうど薬を調達に行っていた女性職員が戻ってきた。
「痺れなど、何か痛み以外の違和感を覚えた折りには、これを飲まれるよう」
「あ、はい」
 ふいと、持ち上げられた双眸に下から見上げられることがどうにも落ち着かなくて、反射的に引いてしまった姿勢を戻してサヤはこくりと頷いた。
「痛みを覚えた折りには、すぐにこちらへ来ていただきたい」
「何事もない場合は、どうすればよろしいですか?」
「二日後に、次の手当てを施そう」
 どうしてなのだろう。ただ事務的に用件を告げられているだけなのに、背筋がむずがゆいような、不思議な違和感が拭いきれない。きっと、似ていると感じる相手の様子と差異がありすぎるのだと脳裏で無理やり折り合いをつけながら、しかしその相手が思い浮かばない。
「繰り返しになるが」
 見かけが似ているというなら、同じ銀糸を戴く日番谷がそうだろう。どこか醒めた様子というか、しんと落ち着き払った物腰は確かに二人の共通点だと思うが、違う。端的な物言いを思い出させるのは、大貴族でもある六番隊隊長。だが、口調やら表情やらの淡白さがしっくりくるという点は、違和感の原因にはなりえない。


 物思いに沈む意識のどこか遠いところで、声が響いていた。決して大きくはなく、むしろ聞き逃してしまいそうな低いそれに惹きつけられるように、意識が覚醒するのはいっそ見事なほど。
「くれぐれも、しっかりと身を守られるよう」
 底の見えない深い深い瞳に、呑まれる錯覚を覚えてサヤはぞくりと鳥肌を立てる。
「重ねられても、呑まれても……これ以上は、もはや俺ではおえなくなるゆえ、な」
 苦しげに、切なげに、痛ましげに。眇められた双眸に、サヤは先ほどの動揺の気配を思い出す。それでも彼はその由縁にはかすりもせずにいて、その姿に違和感よりも納得を強く覚えてしまった己に、サヤはやはり似ているのかもしれない誰かを記憶の中で必死に探し続けていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。