とこしえにも似たるもの
もちろん、束の間の現実逃避は決して事実を凌駕したりはしない。山積みの問題は解決する端からさらに山を高くし、気づけば刀獣の出没区域は流魂街やら現世にまで及んでいる。
どうにも拭いようのない苛立ちをむやみに溢れさせるわけにもいかず、結局日番谷がおとなうのは隊主羽織を纏うがゆえの意地と形式を脱ぎ去れる場所。こうも間を置かずにやってくるのは珍しいと、隠さず臆さず、笑う娘のある種の豪胆さもまた、日番谷はいたく気に入っている。
やはり夜が更けるまで他愛なく気兼ねない時間を堪能し、店の入り口まで見送りに立ったサヤは、ふと楽しげに微笑みながら実にかわいらしい提案を口にした。
「もしよろしければ、お昼を届けましょうか?」
申し出は唐突なものだったが、瞬き一つで日番谷は彼女がそんな思いつきに至った理由を察することができていた。
「……そんな、よく食ってたか?」
「ええ、まあ」
問いかけが確認口調になったのは自覚できたが、間髪置かずに一分の隙もない肯定を返されては、少々複雑な心持ちである。
「そのように、難しい顔をなさらなくてもよろしいと思いますよ。少なくともわたしは、いたずらに食欲が増減するよりも、ずっと健康的な苛立ち方だと思いますし」
「けど、仕出しなんかやってないだろ?」
「日番谷殿は上得意様ですもの。このぐらい、融通させていただきますよ」
遊ぶように声は踊っていたが、からかう色は微塵も滲んでいない。そういった気の配りようが、彼女の個性なのか、それともこの店の敷居なのか。日番谷には、まだ判別がつけられない。
仕事に忙殺されたり苛立ちが募ったりすることで食欲が減退したり増進されるという例はよく聞くが、日番谷の場合は食べ物への選り好みが激しくなるという癖があった。味覚音痴であるとは思わないが、口に合う合わないといううるさい趣味を持っているつもりもなかった当人としては、そうと知った時は実に衝撃的だった。だが、どうやら自覚以上に日番谷の舌は味にうるさいらしいのだ。
普段は隊舎の食堂で他の隊員達に混じって定食をかき込んでいるのだが、たとえば疲れが溜まると、その味付けをどうにも受け付けられなくなる。はじめの内は慣れない疲労や心労で食欲が減退しているのだろうと判断していたのだが、ふらと訪れたサヤの店で出された料理はぺろりと平らげることができた。
朝や昼の食事がろくにとれなければ空腹感は募るし、その分口に合う夕食の分量は増加する。そんな極端な食事を幾度か繰り返せば、客をもてなすことに長けている洞察力から、日番谷の抱える性癖を察することはさほど難しいことではなかったのだろう。
以来、自覚の薄い疲労が蓄積していると見てとられた時などは、昼食を用意しておくから食べに来るようにと声をかけられることもあった。だが、届けようという申し出は今回が初めてだ。
「そういう特別扱いは、しない方がいいんじゃねぇのか?」
「店としては、そうですけれど」
申し出は素直にありがたい。無自覚によく食べているのなら、自覚以上に心身が参っているという証拠。こんなにも切迫した状況下で、まさか貧血や栄養不足で倒れるわけにはいかない。
きちんきちんと食事をすることは、むしろ体調管理という意味で義務の一環でさえある。しかし、状況はやはり切迫している。こうして夜の時間を自由に使う権利にも筋違いの後ろめたさを覚えているというのに、いくら食事休憩をとれるとはいえ、昼にも隊舎を抜け出すのは、日番谷の性格上、無理な相談というものなのだ。
ありがたいが申し訳ないのだと。隠さず声に託して再度確認のための問いを差し向ければ、想像通りの返答と、それを覆す予想外の返答を差し返される。
「これは、わたし個人からの申し出ですから」
「そんな勝手、許されんのか?」
「最近、お昼の時間帯は閑古鳥が鳴く始末ですし」
「そういうことじゃないだろ」
澄ました様子でさりげなく日番谷の真意をはぐらかすような言葉を弄していたサヤが、困ったようにはにかみながら小首をかしげる。
「多少なり、ご恩返しをしたいとずっと思っていたのです」
「……恩なんか、売った覚えはねぇぞ?」
「わたしには、いただいた覚えがありまして」
言葉尻を捉えて混ぜ返し、しかし今度は日番谷が律儀に訂正と軌道修正を入れるよりも早く、サヤから言葉を重ねていく。
「義父と義母は、瀞霊廷でも由緒正しき商家の出です。その二人が正式に養子にしてくださったとはいえ、わたしは文字通り、降って湧いたどこの馬の骨とも知れない存在。確かにその通りではありますが、ずっとそうそしる声があったのが納まったのは、日番谷殿のおかげですもの」
「俺は別に、何もしてない」
「何をなさらずとも、この店に通い、わたしのもてなしを気に入ってくださっています」
「それは、単なる好みの問題だろ?」
「それでも、十番隊隊長が気に入っているのだから、との認識をいただけたことで、わたしにとっては何よりも力強い後ろ盾になったのです」
きっぱりと言い切り、いまいち納得しきれていない日番谷に、サヤは「そういうものなのですよ」とほろ苦く畳みかける。
Fin.