とこしえにも似たるもの
知盛も実に掴みどころがなく読めない男だが、この娘もまた底が知れない。どことなく古風な言葉遣いをするからにはそこそこ以上の年月を過ごしているのかと思えば、尸魂界に流れ着いてから三十年ほどという。ならば自分達よりはよほど若年なのだろうと心得て接すれば、どうにもしっくりとこない違和感がある。
どういう時間を重ねた上でここにいるのかと、それを問うのは無粋であり不躾だ。
現世で死して尸魂界へと渡ってきた魂は、生前の記憶を緩やかに磨耗しながら時を過ごす。よほど強く思うことがあれば別らしいが、基本的に、生前のことなどろくに覚えていないものだ。自分がどこの誰だったか、そのぐらいしか覚えていない。そうでなければ、辛く、苦しく、やりきれまい。
ゆえに日番谷は問うことができない。店の主人にして彼女の養い親から、彼女は己の名前の記憶さえおぼつかないほどだったのだと聞いている。多くを忘却の彼方へと喪う魂の中でもとみにその力に頼ったというのならば、なおのこと。問うてはならない何かを踏み越えてここにいるのだろうことを、あえて突き詰める気になどなるはずもない。
静穏の中で杯を重ねているだけだったから、何気なく紡いだ「なあ」という呼びかけは、実によく夜闇に映えた。
「その魂の対って存在、アンタは信じてるのか?」
「これはまた、難しいことを申されますね」
「そっちが言いだしたんだろ?」
「きっかけは日番谷殿ですのに」
はぐらかすようにのらりくらりと言葉を弄ぶが、彼女はこういう言葉遊びのテンポを好んでいるだけだ。別に、本気で答えをはぐらかすわけではない。
「サヤ」
その証拠に、ようやくいつもどおりに名を呼ばれた日番谷が同じく名を呼び返せば、瞬き一つでいたずら気な笑みを切なげなそれへと塗り替える。
「ええ、信じますよ――信じているからこそ、今もなお時間を重ねられるのです。何もない、空白の時間を」
そして垣間見えるのは日番谷が予想し、期待した以上の重い何か。彼女がその肉体と共に現世に置き去りにしてきたのかもしれない見えない時間の尊さを語る、深い深い魂の慟哭なのだ。
そのまま杯を重ね、深更が色濃くなった頃に店を辞した日番谷は、送ろうかという間の抜けた申し出を丁重に断って、ゆらゆらと夜道を歩く。仮にも隊長である己の身を心配するとは、ありがたいことであるが、微笑ましくもあり抜けてもいる。だいたい、今は氷輪丸も実体化して己につき従っている。これで夜道で何者かに襲われて倒れるのならば、彼女の存在がその場にはない方がいいほどの敵だということだ。
「先ほどのあの娘」
「サヤのことか?」
持ち主を失ったか、見失ったか。とりあえずいまだ瀞霊廷を跋扈する実体化した斬魄刀――それらを一時的に日番谷達は刀獣と呼んでいるのだが――を捕えるため、平時よりも夜勤の死神が多く配置されている。夜中の静穏を微かに、しかしはっきりと乱し続けるとめどない気配を神経の隅で捉えながら、ぽつりと落ちた己の斬魄刀の言葉に、日番谷は珍しいなと内心で瞬きを繰り返す。
「あの店の主人の養子だ。詳しいきさつは知らねぇが、俺が京楽に店に初めて連れて行かれた時から、決まって相手をしてくれる」
「気に入っているのか?」
「お前は、気に喰わなかったか?」
「そういうわけではないが」
何かをしきりに気にかけている様子の氷輪丸を横目に見上げ、日番谷は「どうした?」と問いを重ねる。
「お前がそうやって俺以外のヤツに興味を示すなんて、珍しいな」
「基本的に、我ら斬魄刀は主にのみ関心があるものだからな」
「なら、どうしたってんだよ」
主人ではない。死神ですらない相手にこうも関心を示す根拠は、ではどこにあるのか。抱いて当然だろう疑問と好奇心を素直に差し向ければ、氷輪丸はどこか苦しげに眉根を寄せて、言葉を紡ぐ。
「名を呼ばれているのに所在の定まらない様子が、主を忘れていた頃の己に重なるのだ」
振り絞るように、差し出された思いは日番谷にとっても傷となっている確かな過去をそっとなぞっていく。
「サヤ、と。それは、あの娘の真の名ではないのだろう」
「どうしてそう思う?」
「今のこの時間を、あの娘は空白だと言っていた」
目の前を駆け抜けていく現在を見つめながら、けれど彼女はそこに身を浸す己を知っているだろうに、すべてを無に等しいと言ってのけた。空虚を重ねているのだと。
「名を呼んでもらえないのは、寂しい。己の居場所が定まらないのは、辛い。しかし私は、届けるべき相手が“主”であると知っていた。だが、あの娘はそれさえもわからずにいる」
それが悲しく、その絶望が想像できるから、辛いのだ。
それこそ苦しげな声で己になぞらえたのだろう感慨をたむけられ、日番谷はしばし逡巡する。
「……名前さえわからなかった中で、唯一覚えていたのが、それなんだとよ」
そして、知っている事実を、なるべく脚色しないよう心がけながら慎重に記憶の底から取り出した。
いつだったか、何かの拍子にぽろりと過去を問うてしまった日番谷に、サヤはただたおやかに微笑んでそう教えてくれた。何もかもがわからなかったが、自分が“サヤ”と称されていたことはわかった。誰かの声で、確かに自分は“サヤ”と呼ばれた。だからきっと、それを名とすることは間違っていないのだろうと。
そうして自分が抱えていた唯一の記憶を呼び名に冠したのは、彼女の希望だと思っている。届けるべき相手を思い出すことさえできない己を抉る言葉に、かそけき可能性のすべてを託したのだろう。自分はここにいる。誰とも知れない存在が確かに呼んだ“サヤ”という自分は、ここにいるのだと示せる唯一の手段だから。
「きっと、今でも信じて、待ってるんだろ。アイツのことを初めて“サヤ”と呼んだ相手のことを」
今の彼女は知っている。もう何十年も尸魂界にいるのだ。ここに流れ着いた時点で、生前の記憶などあらかた消えているのが常だということを。
ゆえにその可能性こそが、絶望に等しい夢想だとわかっていたとしても。
Fin.