朔夜のうさぎは夢を見る

とこしえにも似たるもの

 ふと頬を撫ぜる気配を感じて、男は何の予備動作もなく薄く瞼を持ち上げた。視界に映るのは、既に見慣れてしまった天井の木目。周囲に流れる空気はかぎ慣れたにおいと気配に満ちていて、ほんのかすかに薬品くさかった。まあ、日頃そういったにおいの充満したところで働いているのだから、衣類や身体に匂いが染み込むのは仕方のないことだろう。
「……随分と、懐かしい夢を」
 あれから一体どれほどの時間が経ったのか、正確なことはわからない。だが、見知らぬこと、耳慣れぬことばかりだったこの世界にもすっかり馴染み、仕事の手の抜き方もしっかりと板についた。そのぐらいには、時間を重ねているのだと自覚すると同時に思い知らされる。
 慣れた動作で身を起こし、軽く全身の筋肉を解しながら視線が走るのは壁際に置かれた机の上の小さな時計。常の起床に比べれば幾分か早い時間だったが、構うまい。どうせ、今は猫の手も借りたいほどの忙しさ。個人的に気になることもいくつかあるし、早めに出勤する分には誰に咎められることもないのだし。
 上掛けを払って立ち上がり、寝具を簡単に片付けてから衣桁にかかっている黒衣に手を伸ばす。一切の装飾のない黒の中に、密かに咲くのは竜胆の紋。皮肉なものだと、そう思う心は薄れて久しい。
 身繕いを終え、出勤にあたって手にするのは一振りの小太刀と財布に部屋の鍵ぐらいなもの。渡り廊下から仰いだ空は、今日も青い。きっと、煩いほどにぎやかな一日になる。


 早めに出勤しようと何をしようと、男の日常にそう大きな起伏はない。引継ぎ用の書類が詰まれている箱を、人気がないのをいいことに自分の机に持ち込み、ざっと目を通して特異事項がないかを確認する。予想通り、特に何の変哲もなく夜を過ごしたらしいことを確認し、次いで自分が担当する区画の入院患者のために必要な治療器具や薬を揃えていく。食事の準備は食堂の人間が行なうが、その指示書の確認と処方薬の準備は彼の仕事だ。
「あ、早いですね。おはようございます、さん」
「……おはようございます、山田七席」
 指示書を食堂に届けてから薬品庫に向かい、手にした篭にごく無造作に必要な薬を放り込んでいた男は、のんびりとかけられた声に体ごと振り返って丁寧に一礼を送る。
「あ、いいですよー。そんなに堅っ苦しくしなくても」
 あはは、と笑って小走りに距離を詰める青年は、男からすれば見下ろす位置に頭がある。だが、ここではその名の後ろにつけられる席次こそが何よりも力を持つ。特異な能力ゆえにろくな実績もないまま十五席という半端な地位に押し込められている男よりも、このいかにも頼りなさそうな青年の方が立場が上なのだ。
「山田七席は、いったいいかなご用向きで?」
「花太郎でいいですって、言ってるのに」
 へらりと困ったようにはにかんでから、けれど青年はすぐに男の隣に並んで薬品棚へと目を向ける。
「一護さん達……旅禍の皆さんの、診療なんです。こっちに来てもらってもいいんですけど、まだ警戒心の抜けない人もいるみたいだし、僕が直接行った方が早いから」
「そうですか」
 ひょいひょいと選び抜かれていく薬が徹底的に打ち身だの切り傷だの、そういった方面のものに偏っていることには思うことがないわけでもなかったが、男は黙って自分の仕事に集中することにする。
「そういえば、今日も斑目三席と勝負するって言ってたから、午後になったら患者さんが増えるかもしれないんですけど」
「………了解しました。なるべく、その時間には手を空けて診療室にいるよう心がけます」
「すみません、お願いします」
 噂ばかりが先行するはた迷惑な客人は、ここ最近の男の仕事の急増の片棒を担いでくれている非常に迷惑な相手である。だが、これも結局は仕事であり職分。溜め息を飲み込んで低く応じた声に心底申し訳なさそうに謝った青年は、これでいてその元凶の巣に踏み込むことを臆しながらも止めないのだから、興味深い。


 平和に侵された、けれどいつでも死のにおいの充満している世界。それが、男が認識したこの世界の姿だった。死者の魂が集うのだというこの世界は、けれどうんざりするほど生者の集うあの世界に酷似している。
 欲があり、体裁があり、権力がある。その権力と体裁がことごとく打ち砕かれる原動力が個々人の欲であるという点は、どうやら死という不可逆の関を超えてもなお貫かれる世界の真理であるらしい。
 自分こそが天に立つと、そう言い放って消えた男が何を思い、何を欲していたのか、男は知らない。知るつもりもないし、知ろうとも思わない。ただ、この魂の奥底から腐ってしまいそうなほど退屈な平穏に現実という刃を突き立てたのは面白いと思った。その程度だ。
 その過程で傷を負った者の中に見知った顔があって不快に思ったとか、お蔭でこの数十年、日課と化していた休暇の図書館通いも中断されて不機嫌だとか。そういうごく個人的な事情に波及するほどの影響はあったが、それ以上は特に何もない。良くも悪くも、やはり名の後ろにつけられる席次こそが重く意味を持つ世界であればこそ、そこそこの地位で留まることを意識しておけば、そう面倒な事態に巻き込まれることもない。
 そういう意味では、徹底した実力主義を貫くこの世界は、生まれだの名だのが常に付きまとっていたあの世界よりはよほど生きやすくもある。その程度なのである。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。