朔夜のうさぎは夢を見る

とこしえにも似たるもの

 結論から言ってしまえば、知盛は何も知らなかった。事態の急展開に混乱しながらも意識を失った男を回収してよりしばし。さほどもせず意識を取り戻したからにはようやく事情説明を乞えるかと思いきや、逆に「アレはどこだ?」と問われる始末。
 どうやら、あの暴力的なまでの美しき殺意の主は、徹底的に器の持ち主の意図を無視して傍若無人に振る舞ったらしい。必死に殺されてなお切実さを滲ませる声が行方を問う娘を、しかし知るものはいない。
 また振り出しなのか、と。自嘲気味に漏らされた呻きに追い打ちをかけられるほどの非情者もまた、その場には居合わせていなかった。
 それから三日後。知盛は本来の任務である日番谷先遣隊の怪我の経過観察を完了させ、血液サンプルを採取してとっとと尸魂界に戻っていった。世話になった。採血に合わせてそう、そっけなくも律儀に挨拶を述べた男は、一護の部屋に踏み入った時と同様、掴みどころのない無表情とけだるげな空気を醸し出しながら、音もなく障子戸の向こうへと去ってしまったのだ。
 なんという痛ましさだと、日番谷はそう思う。けれど、あえてその傷に踏み入ろうとは思わない。踏み入ってはいけないと思ったし、踏み入るべきではないと知っていた。


 何もかもをあけすけに曝け出すことこそが尊いとは思わない。それこそが信頼の証だとは思わない。
 ヒトは誰しも踏み入ってはならない領域を抱えているものだ。たとえ踏み入られたとて、察されたとて、譲れない何かを抱えているものだ。たとえば日番谷にとってそれは、あのかけがえのない幼馴染の存在。
 あれほどの裏切りを受けてなお藍染を盲目的に信じている姿は、日番谷の目にも痛々しく、あるいは愚かしい。こうもすべてを踏み躙ったあの男への憎しみは消えない。それでも、彼女の夢想が真理であればいいと祈ってしまう。
 すべてが真綿にくるまれたように不安定で心地良かったあの日々が、少なくとも揺るぎ無い事実として過去に根差しているように。その傷をどうしても癒しきることができず、膿ませたまま進もうと足掻く姿を仄かに嗤い、痛烈に揶揄し、それを踏まえて決して否定せずに認めてくれる男のことを、日番谷は素直に尊敬しているのだ。


 物憂げな様子で酒器を置いた細い指先を横目に、娘はほんのりと微笑んだ。淡い淡い、苦笑を刷いた。
「何事か、憂えておいでですか?」
「憂いごとだらけだ。最近はな」
「あら」
 珍しい。その一言をせっかく音にせず飲み込んだというのに、喉を鳴らす気配に日番谷は眉間のしわを深める。
「俺がこんな弱音を吐くのは、おかしいか?」
「いいえ」
 気づかれているのなら構わないだろう。そう判断して笑みの滲むことを殺す気もなくなった声を返せば、声音に反する言葉に対して訝しげな視線を流される。
「珍しいとは思いますが、おかしいとは思いません」
「そうか? 仮にも隊長位にあって、現世派遣も任じられた。だってのに、状況の硬直っぷりを見てとっとと呼び戻された不甲斐ない餓鬼だぜ?」
「あら、お珍しい」
 滔々と紡がれた自嘲の言葉に今度は隠さず驚愕を返し、不機嫌さに歪められた視線を正面から受け止めて娘はいっそ朗らかに笑った。
「ですが、何もかもを抱え込まれるよりは、よほど健全かと思いますよ」
「……アンタ、さすがは京楽の紹介だよ」
「お褒めにあずかり、光栄の至りと存じます」
 くすくす喉を鳴らしながら、刀を握ることを知らない指先が流れるような所作で酒器を掬う。ことりと傾げられた首と共にわずかに傾ける動作に促されて、日番谷は黙って杯の中身を干し、ずいと腕を突き出した。


 瀞霊廷は広い。死神達が集う隊舎もあるが、同時に貴族やら中央四十六室やらも存在している。なればその中には生活に必要な物品を扱う店が軒を連ね、娯楽のための区画が現れる。流魂街にいた頃にはほとんど縁のなかったそういった世界も、好む好まざるにかかわらず、知らねばならないことだった。
 護廷十三隊の隊長とは、戦闘力が高いだけであったり、書類を捌く能力さえ持っていればいいというわけにはいかない。十一番隊のような特殊例を除き、その地位には政治的なしがらみがどうしても発生する。そういったいかんともしがたい事由によってずるずると足を踏み入れたうちの一角に、彼女はいた。
 芸も売るが、色も売る。しかしそこに嫌らしさはまるでなく、何かを突き抜けた芸術性が存在する茶屋。
 飲みに行こう、いい店があるんだよ。そう笑って、予期せぬ政治的なしがらみと綱渡りとに辟易していた日番谷を、そういう場の象徴でもある高級料亭街に連れ込んだのは八番隊隊長。確かあれは、日番谷の隊長就任一年目の祝いの席だったはずだ。しかしさすがは旧家の子息。もうこりごりだと無言ながらも雄弁に訴えていた日番谷の内心をしっかりと汲み、そういう色欲が渦巻く所ばかりではないのだと示したのがこの店だった。
 飯はうまく、酒もうまく、茶を頼んでも嫌な顔一つしない。もてなしの腕も申し分なく、居心地の良さは完璧。昼夜を問わず店を開けていると聞き、客を選ぶ単価ゆえにとひとりになりたい折りに幾度か利用するうちに、すっかり気に入ってしまったのはなんだか京楽の思惑通りのようで面白くなかったが、それ以上に、知ることのできたという縁を重んじたかった。そう思えるほどには、日番谷はこの店と、いつの間にか彼が足を運ぶ際には決まって応対してくれるこの娘のことを、気に入っていたのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。