徐々に知る
そう多くもない替えの衣と意外に多かった手習いやら鍛錬やらの道具と共に重衡の邸に希が預けられたのは、それから六日後のこと。さらにその翌々日に揃って出立したはずの“父”と“母”だったが、帰還は単独によるものであった。
預けられた先にておとなしく、あるいは従順に「留守の間も手を抜くな」との言いつけを守って手習いだの鍛錬だのに精を出していた希は、戻ったからとわざわざ迎えに来てくれた知盛の操る馬に揺られながら、思わずしょんぼりと息を吐きだす。
「……お前、失礼な奴だな」
決して意図してのものではないし、他意はない。だからこそ余計にその心中が切実に滲んでいたのだろう。しみじみとした声が頭上から降ってくるのを受けとめて、希は視線を仰向けた。
「俺の迎えでは、不満か」
「不満、というのではありません」
常のどこかにからかう気色を載せた声とは違って、知盛の声は正直に憮然とした色を纏っている。返した言葉そのままに、もちろん希はこの風変わりで物好きな“父”の帰還を喜ばしく思っていたが、拭いきれない違和感があるのも実情。
「父上が、はは……胡蝶殿とご一緒でないのが、不思議です」
うっかり声になりかけた“母上”との呼称は、視線の位置を戻すことですんでのところで飲み下す。無論、何かと聡い知盛が呑みこまれた単語の示すところに気付かなかったとは思わないが、指摘がないのはすなわち好きにしていいことだと、ぼんやり悟ることはできていた。
知盛の言葉によって幼い計略と必死の強がりを看破され、容赦なく打ち砕かれ、暴いてあばいてその上で偽らなくていいのだと諭されてから、およそ二月。似て異なる性格の持ち主である“叔父”の許に預けられながら、希は希でよく考えることにした。
きっとあの折りにあえてあのような乱暴な手段で最初からわかりきっていただろう希の強がりを指摘したのは、こうして独りで考える時間を与えるためだったのだろうと思い至った。切り離され、新しい空間に放り込まれ、振り返ってみればそれまで自分の置かれていた境遇が客観的に俯瞰できる。つまり自分はあの邸では決して異分子ではなかったのだと、思い知るのは存外容易なことだった。
実父と触れ合った記憶はろくにない。自分の生きた年数ゆえにそれは仕方ないと、それこそ年齢不相応な思考が行きついてなお、実のところ希には知盛に言われた“仇”という言葉が実感できずにいる。
記憶がろくになければ、実父に対する愛着もあまりない。幼いながらに諭し続けられた源氏としての誇りも、平家に対する怨嗟も、何もかもが希からは遠い。
わかるのはただ、その血脈ゆえに自分はあの日に炎の中で死を覚悟し、拾われてなお、常に血脈の重みを突きつけられるのだという現実のみ。そして、その現実は動かしようのない事実として受け入れて、何を血迷ったか自分の嫡男として希を育てることに決めたらしい新しい“父”の差し向けてくれる言葉と行動と思いのすべてに、一片の偽りもないのだという現実のみ。
記憶がろくにない実父への愛着を、たった一月の触れ合いと二月の別離で凌駕するほどに知盛と触れ合う時間の量が多く、密度が高かったと、ただその現実のみである。
馬に揺られれば知盛邸と重衡邸の距離などあっという間。門をくぐった途端に感じる確かな懐かしさと安堵に思わずもう一度息を吐き出せば、今度は楽しげな笑声が低く降ってきた。
「すぐに、とは言わんがな。じきに、戻る」
駆け寄ってきた郎党を認めて馬を下りた知盛は、希を手ずから抱いて鞍から下ろしてやりながら言葉を綴る。
「しばらく、また俺も忙しなくなるが、どうせ重衡も似たようなもの。なれば、アレが欠けていたとて、こちらの方がお前も気安かろう?」
曖昧に焦点をぼかしたようでいてはきと揶揄されたのは、きっと先の安堵の吐息。いつの間にやらこの邸の中にこそ己の居場所を見出していたのだと、思い知らされる実感の具現。
「お戻りなさいませ、知盛殿、希殿」
「ああ」
すたすたと庭を横切って寝殿南面の階に足をかけたところで、簀子縁を渡って姿を現したのは知盛の母ほどの年齢の女房。たおやかに微笑んでかけられた出迎えの言葉に短く頷いた“父”がくるりと視線を向けてくるのを察しながら、希はゆっくりと口を開く。
「ただいま戻りました」
ぺこりと頭を下げて、偽りなど一片もなく、心の底から湧いてきた思いをそのまま言葉に換えて。
「皆、お待ち申し上げておりましたよ」
違和など微塵も覚えずに舌に載った音には、ぬくもりを増した笑顔と声と、ふっと和んだ頭上からの視線を知る。
源氏も平家も知らない。白も紅もまだわからない。ただ、自分はこの邸でこの“父”とあの“母”と共に過ごす時間にこそ「戻りました」と告げられるのだなと。そんなことを、思っていた。
Fin.
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