寄り添うこと
忙しなくなるとの予告通り、希が邸に戻ってからの知盛はそれこそ息をつく間もない勢いで動き回ってほどなく馬上の人となった。邸にいてもいなくても構っている暇はないという理由で放置され、やはり希としてはおとなしく、あるいは従順に、自分の日課をこなすぐらいしかなす術がない。
身に迫ったあの日の危機からしても世にはびこるきな臭さは感じていたが、時流の中心に坐する平家の、中でも嫡流でありかつ随一と謡われる僥将の間近にあれば、肌に感じるそれは桁違い。都が京に移り、そのままの勢いで再び東国に発った背中を見送ってからしばし。そして希は、欠陥などひとつもないと思っていたこの完璧な“父”の抱える一種の瑕を知るに至った。
訪れたはいいものの声をかけてもいいものかと逡巡し続けた時間はどれほどだったか。遠慮のない溜め息に載せた「入るのか入らんのか、どちらだ」という意外に力強い督促の声に、希は俯けていた視線をはっと持ち上げた。
目の前には、ぴたりと閉められた枢戸。手の内には、薬湯を湛えた椀。
「お邪魔しても、いいですか?」
「入るなら、さっさと入れ」
おずおずと問いかければ、呆れ果てた、常よりはどこか覇気のない肯定が返される。
閉鎖されていればこそ真っ暗なのかと思いきや、塗り籠めの中は意外に明るい。どんよりとした曇り空ではろくに明かりなど入っていないと思っていたのだが、周到なのか眉を顰めるべきなのか、知盛は手燭に灯りをともして横臥したまま何やら書簡に目を通しているようだった。
「お休みになっていなくて、大丈夫ですか?」
「重衡がおらん。その分まで、こちらに回ってきているんだ」
良いか悪いかではなく、そうせざるを得ないのだと。暗に自分の境遇をほのめかしてから、知盛は視線を巡らせて塗り籠めに入ってきた希を見遣る。
「……薬湯なれば、いらんぞ」
「ボクは、父上にこれを飲んでいただくように、と、安芸殿に言われました」
「気休めにすぎんのに、なぜかくも不味いものを口にせねばならん」
「重湯さえ、断られているとうかがいました」
中身を問いもせずに椀を一瞥すると同時に不機嫌に拒絶を差し向けられても、希は退くつもりがない。問答になっていない言葉を返しながら枕辺に膝をつき、上掛けを羽織りながら体を起こした知盛と向かい合う。
困ったものだと溜め息を落とすのは、安芸に限らず、見かける家人のほぼ全員であった。
こうして体調を崩すたび、なんとこの邸の主は誰もかれもを近づけないよう徹底的に人払いをかけて、ほぼ絶食状態で塗り籠めに引き篭もるのだそうだ。人の気配がいたずらに近づけば神経を刺激して眠れないというのが最大の理由なのだそうだが、彼らが困っているのはそこではない。
眠りと眠りの合間に訪れる覚醒において、毎度誰かしらを呼んでくれるならばそれでもいい。重湯を、粥を、薬湯を届けることができれば、あとは存分に眠ってもらうしか手立てがないことは動かし難い事実だ。
だが、こと面倒を何よりも嫌う知盛は、酷い時には日に一度も薬湯を運ばせることさえなく過ごすことさえある。百歩譲っておとなしく寝ていてくれるならばともかく、加えてこうして気づけば褥の中で政務を執り行っていることがままあるというのだから、治るものも治らない。
「飲んでください」
向き合い、椀を床に置いてずいと差し出せば、本当に、この上なく嫌そうに一瞥して知盛は低く問いを差し返す。
「誰の手によるものだ?」
「二条の翁殿です」
「あの、胡散臭い比叡の法師のものではないのだな?」
「尼御前から届けられていましたが、安芸殿が断っていました」
重ねられた確認に見たままを告げれば、瞳の奥に偽りがないかを探るように希をじっと見つめてから、大げさに溜息を吐きだして知盛は一息に椀の中身を呷る。
Fin.
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