保護者としての彼
どうせ弟の来訪には気づいているだろうに、まるで知らないふり。しばらく希に動きの基本を叩き込むことに終始してから、ようやく知盛は木刀の切っ先を地に向けた。
「兄上、お邪魔しております」
「ああ」
その隙を逃さず声をはさんだ重衡にちらと視線を流して頷く向こうでは、客人の存在にはじめて気付いたらしい子供が目を大きく見開き、挨拶の文言を紡ごうとして咽こんでいる。すっかり上がってしまった呼吸が、声を編むことに追いつかなかったのだろう。
「どうぞ焦られませんよう。お久しぶりですね、希殿」
「……どこかでお会いしましたか?」
やんわりと微笑みながら差し向けられた言葉にますます目を円くして、今度こそ呼吸を整えてから希はおずおずと問い返す。どうやら、面識の有無に関しては双方の間に認識の齟齬があるらしい。
「申し訳ありません。ボクには、覚えがなくて」
「いえ、どうぞお気になさらず。希殿がこちらに参られた日の席に、私も同席していたのですよ」
「そうだったんですか?」
傾げられていた小首が角度を変え、与えられた答えの真偽を問うように知盛へと視線が上向く。
視線を向けられた先にいる知盛はといえば、足音もなくゆらと庭を横切り、既に重衡との座す簀子縁の面前に到達して黙って水に満たされた竹筒を呷っているところだった。遠目には汗など微塵もかいていないように見えたのだが、喉を潤してから吐き出された息は満足感に満ちている。
「どうぞこちらに。希殿も、喉が渇いておいででしょう?」
その様子を見るともなしに見遣った重衡の誘いとそれを受けてようやく流された深紫の視線に応えてとことこと距離を縮めてきた子供に別の竹筒を渡してやってから、は手元に汗を拭うためにと用立てておいた布を手繰る。
「会ったことがないと……そう思うのなら、なすべき挨拶があろう?」
「はいっ!」
そうしてがもぞもぞと動いている間にも、話はとんとん拍子で進行していく。鷹揚に見えて実は意外に作法に厳しい主に指摘されて、竹筒に口をつけようとしていた希は慌てて背筋をぴんと張った。
「お初にお目にかかります。希と申します」
「これは、ご丁寧に痛み入ります」
そのままぴょこんと頭を下げる様子にくすくすと喉を鳴らし、重衡は実に穏やかに視線を和ませる。
「知盛兄上の弟にて、蔵人頭、平重衡と申します」
「どのようにお呼びすればいいですか?」
「そうですね」
告げられた官職と名を口の中で繰り返し、けれど希はどれを呼称とすべきかに悩んだらしい。率直な問いを差し向けられ、意外そうに目をしばたかせてから重衡は再び笑う。
「では、名でお呼びください」
官位なぞどうせすぐに移ろうのですから。そう続けられた声はほんのわずかな蔭を帯びていたが、良くも悪くも素直な子供はそのある種の陰惨さを嗅ぎ取るにはあまりにも幼い。くすぐったそうに笑って「重衡殿と」と確認を入れてから、ようやく水にありついている。
「して、何用だ?」
「つれないことを。他ならぬ兄上のお招きであればと、この重衡、今宵の誘いを断ってまでこうしてお訪ね申し上げておりますのに」
「四条の君はまるで蛇のごとくと、そう嘆いていたのはどの口か」
「なれば兄上こそ。先日の宴にての対価は、いったいいかにしてお返しくださるおつもりで?」
「これは、ぬかったか」
くつくつと笑いながらあまりにも明け透けであまりにも不穏当な言葉ばかりをぽいぽいと交わすよく似た兄弟に、希はきょとんと目を見開き、は頭痛を堪えて眉間にしわを刻む。理解できていなければこそ悪影響はあまりないだろうが、決して幼子を養育する環境として、少なくとも情操教育にはよろしくない保護者である。
もっとも、同時に知盛は意外やいかにも父親然とした側面も見せる。気楽な調子で簀子縁に腰を下ろし、言葉遊びに満足したらしい。ふと思い立った様子で庭に立ったままだった希を手招き、近寄ってきたまだ幼い体をひっくり返しながらひょいと抱き上げ、足の間に座らせてやる。
一旦は目を見開きながらも、そろそろ希もこの“父親”の唐突ぶりには耐性ができはじめている様子である。抱き上げながら視線を巡らせて要求された布をが知盛に手渡せば、そのままわしわしと汗に濡れた頭を拭いてやる。そうして頭を好き放題に振り回されることが、なにやら楽しいのだろう。くすぐったげに笑声をこぼして全身から力を抜き、希は素直に背中を預けながら話を聞く体勢に入っている。
Fin.
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