朔夜のうさぎは夢を見る

その本気

 いつの間に戻ったのかさえ知らないということは、着替えから何から、主の出迎えを誰か他の女房に任せてしまったということだ。主付きとしての重要度の高い仕事のひとつを放置してしまったことに軽い後悔を覚え、それでも気を取り直しては姿勢を改める。
「お戻りなさいませ。お出迎えもせず、失礼をいたしました」
「構わん」
 もっとも、当人はまるで気にした風もない。予定よりも早かったしな、と。宥めるように言葉を返しながら、手にしていた木刀を軽く持ち上げて希を見やる。
「馬術の稽古には、まだ早い……まずは、もっと剣術の基礎を固めるところからだ」
「剣の腕が上がったら、次は馬の乗り方も教えていただけますか?」
「出仕より戻った父に出迎えの言葉もないようなら、礼節の躾こそが先だがな」
 縋るように見上げてくる幼くも必死な双眸にちらとからかうような笑みと声を差し向ければ、まだこの義父の本気とからかいの境界を見定めることができていない子供は、大慌てで頭を下げる。
「お勤めお疲れ様にございました! お戻りなさいませ!」
 勢い余って床に額をぶつけたらしいゴツンという音が痛ましかったが、そのまっすぐな姿は素直に微笑ましい。同じことを思ったのか、楽しげに、やわらかく目尻を和ませて養い子の後頭部に低く笑声を降らせてから、知盛はするりと踵を返す。
「木刀を持ってこい……。留守の間、一人で修練ができるよう、今日は剣舞を教えてやろう」
「はいっ!」
 言葉に応えていかにも嬉しそうに顔を上げた希は、会釈というには深く頭を下げると「御前を失礼します!」と言い残してぱたぱたと簀子縁を駆けていく。


 勢いよく捲り上げられた名残りでゆらゆらと揺れ続ける御簾をなんとなしに眺めていたは、そしてそのまま視界を音もなく横切る衣の裾に視線を巡らせる。
「水を持ってこい」
「承知いたしました」
 そのまま庭に降り立つつもりだろう主の気遣いは、鍛錬によって疲労困憊することが確定している子供のために。本当に、知盛がどういうつもりで子供を拾ったのかその真意はわからないが、冗談かと判じていた子供が云々という理由は思いのほか本気だったのかもしれない。拾ってよりこちら、躾から文武の教育から、これは初期の以上に厳しい、しかし慈愛に満ちた扱いである。
 ついでに汗を拭うための布も必要だろう。それから、どうせどこかしらに傷を作るだろうから、それらの手当てのための薬草も。要りようのものを脳裏に浮かべて腰を上げれば、そのまま足を止めていた主が促すように御簾を持ち上げる。
 気遣いには素直に礼を述べて簀子縁に足を踏み出したところで、ぱたぱたと近づいてきていた足音がぴたりと止まる気配があった。知盛共々、目を向けた方角は同じで、推測は限りなく確信に近いと知っている。きっと途中で安芸なり他の女房なりに捕まったのだろう。邸内では走るなとの説教を受けていることは想像に難くなく、首を元に戻しながら口元を緩めている知盛と目を見合わせて、はその微笑ましい情景の想像にほろりと笑った。


 主が帰邸してしまえば、にとっての仕事は主の傍近くに控え、必要時に必要な対応ができるように目を配ることこそ。すぐに自分も降りられるようにと草履を用意した上で庭に面した階の上に腰を据える頃には、既に手習いは幕を開けていた。まずは知盛が手本とばかりに舞ってみせ、それから今度はことさらゆっくりした動きでもう一度。たどたどしくも見よう見まねで手足を動かす子供には、つど細かな指導が入る。
 知盛自身が鍛練をしている様子は滅多に見ることができない。どこかしらで何がしかの修練を積んでいるからこそかほどの実力を保持していられるのだろうが、少なくともが見知っている限りでは知盛は衆目に自身のそういった姿を曝そうとしない。どうやら明け方、あるいは夕刻のが庶務に追われている時間帯が主な個人修練の時間帯であるらしいことはわかったが、見学する時間を設けるには女房としての仕事が忙しすぎるのだ。
 だからこそ、こうして希に稽古をつける様子を見学するようになって、初めて知ったことがある。
「随分と楽しそうでいらっしゃいますね」
「頭の君様」
 と、つらつらと耽っていた思考を遮って耳朶に届く衣擦れの音があった。それとほぼ同時にそよぐ穏やかな声音に反射的に向き直って頭を下げた先には、主の弟君。こちらは出仕を終えただろうに直衣をきちんと着こなした上で、しかし先導の女房はつけずに勝手知ったる様子での隣に腰を下ろす。
「兄上に少々用向きがあったのですが、これではどうやら、しばらく待った方が賢明というものでしょうか」
「お急ぎではございませんか?」
「いいえ、大丈夫ですよ」
 にこりと華やかな笑みを浮かべた淡紫の視線が庭へと向けるのにつられて姿勢を戻したは、そのままの体勢でやわらに紡がれる言葉を聞く。


「承知していたことにはございましたが、兄上は本気で希殿をご嫡男として扱われるおつもりなのですね」
 しみじみと、重衡がその感慨に至った根拠こそ、の先の思索の行き先。知盛が二人の目の前で希に叩き込んでいる剣舞は、動きの種類によらず体の軸を保つことと、持久力向上を目的に編まれたそれである。体格や体力、型を完成させるまでにと目算している時間の差異からかそこかしこに違いは見られるものの、自分が真っ先に教え込まれたそれと基本が同じであることを見抜けるほどには、も既に経験と実力を積んでいる。
 適当にあしらおうと思えばそれもできるだろう。なにせあの子供はまだ何も知らないのだ。誤った型を教えて、将来刃を握ることを願おうともその切っ先が決して一門にとっての害にならないよう導くことさえできる。だが、知盛はそうはしない。平家随一と謳われる彼が手ずから、こうして一から剣を鍛えるその稀少さをわかっているはずもない子供を相手に、忙しい時間を割いては磨き上げようとしている。だからこそ、は知盛の思惑はわからずとも子供に対する本気を知る。
 平家が鬼神にして切れ者として名高い新中納言、平知盛の嫡男であるという肩書きに負けることのないように、さすがはその“息子”と讃えられるように、徹底的に。

Fin.

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