不思議な関係
とはいえ、邸に子供が一人増えようが増えまいが、別に知盛の生活に大きな変化はない。世話役を言い付かっていたのは主に安芸であり、他の女房達も物珍しげに甲斐甲斐しく世話を焼いている。ただ、どこからか探し出してきた、がかつて鍛錬に使っていたそれよりも小さな木刀を与え、時折り剣術の指南をする程度。後は基本的に放任主義を貫いており、子供が何をしようと構うつもりはないらしい。
邸に同年代の子供などいるわけもなく、日々を躾やら何やらの容赦ない英才教育で追い立てられる様子に同情を覚えてしまえば、構う頻度が高くなるのもむべなるかな。あまり接点を多くしても子供の心に悲しい記憶を呼び起こすだけだろうと考えての当初の遠慮は、気づけば忘却の彼方である。
休憩中なのか、手習い用にとあてがわれた一角の表にあたる簀子縁に出て庭を眺めている子供を見つけて、は心持ち足を速めて板敷きの廊を渡る。
「希殿」
呼べば目を見開きながら振り返り、嬉しそうに笑って腰を上げようと動き出す。その動作を「そのままで」と軽く制して隣に膝をつけば、丁寧に姿勢を整えた上で子供はぺこんと頭を下げた。
「お勤めお疲れさまです」
「ありがとうございます。希殿は、休憩を?」
「はい。本日の分の手習いは終わったので、今日は父上に剣術の稽古をつけていただきます」
きらきらとした声での答えに思わず頬を緩め、この奇妙な、それでいてなぜだかしっくり調和している“親子”の姿に、もう何度目かも忘れた感慨を抱く。
どうやら頭が良いらしい子供は、が戦場に在ったことを口にするなと言いつければきっちり守ってくれている。それでも、道中を共にしてきた気安さが懐き具合に大きく影響していることはあえて指摘をするまでもない。想像以上に懐いてくれるのは構わないのだが、みだりに口にされては困る部分も存在する。その点、ものわかりの良い様子には大変助けられていた。
もっとも、子供らしい遠慮のなさももちろん持ち合わせている。女房として初めて対面した際、目を円く見開いて「そうしていると女房殿にしか見えませんね」と言い放たれた折りには、爆笑する主に対して共々、眩暈を覚えたものである。大まかな日々の流れが掴めてよりこちら、拾われたその因果となった戦場に居合わせたどことない罪悪感も相まっていたとは対照的に子供がそのことに何らかの親しみでも覚えていたのだと察する頃には、は邸の誰もが暗黙のうちに了解する子供の息抜き場所である。
「胡蝶殿も、休憩ですか?」
「ええ、そうですよ」
どこか舌足らずに、たどたどしく名を呼ばれるのはなぜかのみである。主の爆笑の第一陣が収まるのを待ってから差し向けられたどう呼べばいいかとの問いに、真意の読めないいつもの笑みで「父と」と言い放った知盛に次いで、子供は問いもせずにのことを「母上」と呼んだ。やはり爆笑する主はさておき、自分の立場を懇々と言い含めた甲斐あって他の女房達と同様の呼称に落ち着いたのだが、声に出されぬ呼びかけの訂正はできていないようである。
もっとも、かほどにしっかりしているとはいえ、聞けば五歳というではないか。まだまだ幼い身空。母が恋しいのは当然であろうから、は何も言わないし、扱いを随分と気安くしている自覚がある。母の代わりにと甘えてくるなら、甘やかしてやるのが自分の役目なのだろう。だって、誰かしらには確実に見られているこの甘やかな関係が、主によって咎められたことはないのだから。
言ってようやく、本来の目的を遂げるためには手に提げていた竹筒と小さな包みを軽く持ち上げてみせる。
「干した杏子を頂いたのです。ご一緒にいかがかと思いまして」
「いただきます」
ぱっと華やいだ声音と表情にゆるりと笑みを返して、は手近な局へと希を誘った。竹筒と包みを持って邸内をうろつく女房などぐらいなものだ。さすがに家人達は慣れたのか誰も何も言おうとしないが、人目に付くところでほどくことを避ける程度の遠慮もある。かろうじて衆目から隠れる程度の奥に移動して、気楽なおやつの時間である。
「そういえば、近々お邸を空けられると聞きました」
「知盛殿のお供で、西国まで参ります」
どこでどうやって情報を仕入れているのか、耳の早いことへの驚きを飲み下しながらは杏子をつまんだ。
「各地を回るご予定のようでしたから、二月か、三月はかかるかと」
「……戻って、いらっしゃいますよね?」
気丈に、まるで生まれてこの方ずっと知盛に育てられたかのように振る舞う子供は、けれど時折りひどく不安げにや知盛を見詰めてくる。知盛に『拾われた』ということがわかっているのだろう。幼いながらに自分の血に刻まれた名と、この場で命が繋がれていることの危うい均衡を感じ取っているらしい姿には、胸がぎりぎりと引き絞られる。
そっと眉尻を下げて、は唇を噛んで俯いてしまっている子供の面前までいざりよる。
「必ず戻ります」
不安と、それを押し殺せない己への苛立ちと、隠しようのない寂しさと。まったく年齢不相応なことだと思い、もっとその思いを遠慮なく差し向けられるよう、優しく包んでやりたいと思う。その血に刻まれた名は消し去りようもないが、今の子供は知盛の手中にある。何事かあれば即座に処断すると言い放たれているが、それは裏を返せば何事もなければ知盛にとっての庇護の対象であるとういこと。もっと心を安んじていても大丈夫なのだと、どうすれば伝えられるだろう。
「ゆえ、どうぞそのように寂しげなお顔をなさらないでください。行きたくなくなってしまうではありませんか」
「それは、困るな」
膝の上で握り締められている細い指をそっと包んでやりながらいたずらげに微笑めば、するりと割り込んでくる主の声。
「お前が一人で馬を駆れるなら、同道もさせてやったが」
弾かれたように二人で視線を持ち上げた先には、御簾をくぐって局に滑り込んできた、既に狩衣へと着替えて気楽に寛いだ知盛が笑っている。
Fin.
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