朔夜のうさぎは夢を見る

いま一度だけ

「……俺を、なお、父と呼ぶのか」
 ぽつりと落とされたのは、独り言のような、けれどきっと問いかけだった。はっと顔を上げた希を、透明な瞳がじっと見つめている。
「何の躊躇いもなく、お前を鎌倉殿に差し出したのは、俺だぞ」
「それが、名を負い、血をまっとうすることだと。父上は、ボクに教えてくださいました」
「恨みには思っておらんのか?」
「その日が来るやもと、ずっと諭されていながら、覚悟しきれていなかったボクが未熟なだけです」
 平淡に紡がれながら、それはでも、確かに知盛自身を詰る言葉だった。恨めばいい。失望すればいい。呻くように告げる音なき声が聞こえるようで、希はなお力を篭めて、必死に言い募る。
「その身に流れる源氏の血の重みは、わかっていると?」
 血の重み、名の重み。まっとうするということ。忘れないということ。体現するということ。それはだって、すべて、知盛が希に繰り返し教えこんでいたことだ。忘れるな、忘れてはならない。しがらみは足枷。けれど、確かに支えになることもあり、誇りであり、その上にこそ自分達は生きているのだと。
「これだけの無様を曝して、今さらと思われるかもしれませんが」
 だから、希は希なりにまっとうしようと覚悟した。負わねばならぬ、果たさねばならぬと覚悟した。なのにままならないばかりの体は、周囲に心配をかけてばかり。答えることで改めて己の不甲斐なさを直視した気がして、希は悔しくなる。


 耐え切れず、希は視線を知盛から外して俯いた。もっと、もっと、もっと。今もかつても、結局のところ何も変わっていない。求めているのに、願っているのに、あがいているのに。決して、手が届かない。
「以前にも、言ったが」
 なのに、しばしの間を置いて返される知盛の言葉は、かつてと同じくとてつもなく優しくて。
「確かに、逃れえぬしがらみ。忘れてはならん。だが、お前はまだ幼い。しがらみをもってなお、守られていい立場だ」
 ぽん、と。俯いた後頭部に、大きな掌が乗せられる。伝わる体温はあたたかくて、無条件に飛びつきたくなってしまうような、そんな衝動を希は必死に噛み殺す。
「取り繕うことはない。何も、案じずとも良い」
 ああ、泣きそうだと。希は唇をきつく噛み締めながら内心で嘆く。やっと涙が納まったのに、この人はどうして、こうも心の奥底を優しく撫ぜることが得意なのだろう。
「ゆえ、今はその地ではなく、“希”というお前にのみ、問おう」
 そして、大きな掌が有無を言わせず希の視線を上向かせる。ぐい、と後頭部を下に引っ張られ、ぐしゃぐしゃの顔が、穏やかに微笑む知盛の双眸と向き合わされる。
「この先、紅か、白か。纏う衣を選べるとすれば、どうする?」


 言葉の意味を、自分は正しく捉えられたのだろうか。目を見開き、ぽかんと口を開けて、希はただ知盛を凝視する。
「鎌倉殿が、お前があまりに気を張っていることを、さすがに憐れまれたそうでな」
 後頭部を押さえつけていた掌があっさりと外され、知盛はわずかに前のめりに傾いていた姿勢をすっと正す。
「我らには、お前を受け入れる用意がある。源氏にも、お前が生きる道がある」
 鎌倉殿は、器の大きい方だ。父と仰ぐに、素晴らしい方だぞ。そう付け加えて小さく笑ってから、知盛は凛と声を張った。
「お前は、お前が仰ぎ、負う名を決める権利を与えられたのだ」
 告げる声は厳かで、抑揚に満ち、朗々と響く。
「選べ。しかし、選ぶからには覚悟しろ。この先には、もはやかくな分岐はない」
 ふと、希は錯覚を覚える。幻想を透かし見る。その背にあるのは、轟々と燃え盛る柱に天井。炎に照らされ、返り血に染まり、熱気の中心でそれでも万年雪のような冷厳さを湛えて立ちはだかっていた、二人の出会いの記憶。


 すぐに答えよとは言わん。よく、考えろ。そう続けてもう言いたいことは言い終えたのか、知盛は手の内で弄ぶばかりだった握り飯を、再び咀嚼しはじめた。その姿はどこかあどけなくすらあり、直前までの様子とあまりにも落差があるが、当人はいかにも自然体である。
「まだ、教えてくれますか?」
 だからだろうか。紡ぐ声は、今度は震えもしなかった。小さく、少し掠れてはしまったが、穏やかに宙に溶ける。
「“生きる”ということを、ボクは、あなたに教えてもらいたいです」
 不安は確かに残っている。けれど決然と、視線と声とに強さを湛えて、希は膝の包みを脇にどけてから、知盛にまっすぐ向きなおるように床に姿勢を正す。
「あなたを父と呼び、白の上に紅を纏い。そうして平家一門の者として生きることを、許してもらえますか?」

Fin.

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