溺れる魚
少し離れた局の御簾の陰に、景時の結界を駆使してまで気配を絶って潜みながら、望美も九郎も耳をそばだてる。視界は狭く、御簾越しであるからには不自由で、おまけに子供のことをほぼ隠している広い広い背中が邪魔で仕方ない。それでも、ここで飛び出していく野暮を働くつもりもなければ、口をはさむ無粋さも持ち合わせていないつもりだ。
九郎の手には、つい先日、鎌倉から届いたばかりの書状が一通。望美の手には、つい先ほど届けられたばかりの文が一通。それぞれにきつく握り締めて、事の帰結に息を詰める。どうか穏やかに、どうか優しく。切実に願う優しい二人を、梶原の兄妹が優しく見やっていることにさえ、気づかぬままに。
振り仰ぐ希の双眸に映るのは、見慣れていたはずの、けれどもうそうそうまみえることはないだろうと諦めていた、面影。何か、何か言わねば。そう思えば思うほど思考が空回り、喉の奥で息が詰まって何も言葉を紡げない希の膝に、やってきたかつての“父親”は携えていた包みを無造作に放り出す。
「食える時に食えと、そう、教えなんだか?」
慌てて受け止めたそれは、布越しにも明らかにほのあたたかく、やわらかかった。今度は無造作に、けれどどこかたおやかな所作で希の隣に腰を降ろしながら、男は淡々と言葉を紡ぐ。
「食うに困るものは、今も少なからぬ」
戦乱の傷痕は、民草のみならず、当事者たる我らにも当然、深い。まだ、ゆとりには程遠い。ぽつりぽつりと呟くように告げてからようやく、まっすぐ庭に向けられていた視線が希へと向けられた。
「開けんのか?」
透明で、あるいはぶっきらぼうで、けれど決して冷たくはない。あまりにも耳慣れた、内心を汲むのが難しい声がどことなく優しいのは、錯覚だろうか。
問われてやっと思い出し、希は呆然と男を仰ぎ見ていた視線を手元に落として、やわらに結ばれていた包みをほどいた。布を剥げば、次は大振りの葉で包まれた何がしか。わずかに迷ってからそれもほどけば、今度こそ言葉が喉に詰まる。
「これ、は?」
「見ればわかろう」
「これは、でも、だって、」
父上、と。かつて許されていた呼称を使うことはさすがに躊躇われる。かといって、いかにもよそよそしく新中納言様と呼ぶこともためらわれ、希はただ、目に映るものを言葉に変換していく。
包みから出てきたのは、握り飯。海藻やら魚介やら、いろいろな具材を混ぜ込んで握った、希が知る限り、平家は新中納言に仕えている風変わりな女房殿が、台盤所の面々に遠巻きにされながら、それでも懲りずに作るだけの。
「俺ももらうぞ」
目を上げることはできず、ただ手元を見つめるだけだった希の視界を、遠慮なく横切ったのは大きな手。綺麗に並んだ握り飯を端から一つ取り上げ、あっという間に消えていく。
「お前の許に届けろと、朝餉を抜いてアレが台盤所に立ってな」
アレが一人で立てば、俺の許に陳情が耐えぬ。朝から共に台盤所に付き合わされたのだ。
説明するというには不満げに、けれど愚痴というにはやわらかく。一方的に言葉を重ねて、知盛は手元を優しく見やっている。
「食膳を調えるのを見ていると、いつになく、腹が減る」
それから、空いていた手で軽く握り飯に片合掌を捧げてから、遠慮なく握り飯をほおばった。
黙々と咀嚼し、やはり携えていた竹筒の中身を煽り、しみじみ吐き出される息は実に満足げ。つられるように合掌して軽く頭を下げ、希もまた握り飯を手に取る。
小さくかじれば、口の中には懐かしい記憶よりもずっと風味豊かな味が広がった。ゆっくりと噛み締めるうちに視界は滲み、ぐすぐすと鼻をすすってしまう。それでも、気づけば希は夢中になって、両手で掴んだ握り飯を、必死にむさぼっていた。
いつの間にやら二つ目の握り飯を手に、今度はかじらず手の中に持ったまま、知盛は希の様子を穏やかに見つめている。
「せっかく拾った命だ。無駄になぞ、するな」
ぽつりと。落とされる声は穏やかで、けれど切実で、何かを確かに悼む気配を湛えている。
「――生きる、と。お前は、そう言ったではないか」
「言いました!」
いつしか鼻をすするだけでは納まらなくなり、泣きじゃくる希は空になった両手で涙を拭ってから、ようやく知盛を振り返った。
「ボクは、教えてくださいと言いました!」
ずっと、口にしてはいけないと思っていた。ずっとずっと、胸の奥底深くに沈めて、誰にも見せてはいけないのだと思って溜めこんでいた衝動を、希は抑えることなど忘れてぶちまける。
「生きると誓った場所を失って、でも、生きないといけなくて!」
だってボクは、父上に誇れるようにありたくて。でも、何もかもが、うまくいかなくて。
嗚咽混じりに、振り絞るようにして織り上げられる希の葛藤に、陰に潜んでいた九郎らは思わず表情を歪める。なんとなく、そうではないかと思っていた。けれど、これで想像以上であることが証明された。
平家において、希は決して人質として扱われていたのではない。彼はやはり、あの一門で、慈しまれていたのだ。
Fin.
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