朔夜のうさぎは夢を見る

皮肉と敬意の哀悼を

 陣の中でいったいどのような説明やら言い訳やらが飛び交ったのか。福原への帰路につく頃には、兵達の間に“大将が何がしかの策のために拾った子供であり、余計な口出しも口外も無用”との了解がすっかり浸透していた。
 家長の手腕と、そして自らか月天将の馬にのみ子供を同乗させるという演出が功を奏したのだろう。目を覚ましてよりこちら、神妙さもありはするが怯えはみせず、大将とその腹心たる姫武者に懐く姿にどうやら同族意識めいたものさえ芽生えたらしく、周囲からの風当たりは悪くない。いつの間にか、実は知盛の隠し子なのだというまことしやかな噂が立つほどである。
 そうこうして福原に帰り着き、しかし一門の重鎮達の目は誤魔化せなかった。いつものごとくは同席しなかったのだが、戦果報告の席は大荒れに荒れたらしい。もっとも、「もう決めた」「責は負う」の一点張りで知盛が我を押し通し、加えて清盛が直々に許可を出したのだという。交換条件は、一門への帰属意識の湧くよう育てることと、監視の徹底。頼朝や義経の二の舞と判じればすぐさま知盛自身の手で処断し、遺体を証拠として差し出すこと。
 子供も同席する席で、しかし知盛は間髪おかずにあっさり頷いたのだと。がそれを聞き知ったのは、これより少しばかり未来のとある日の、当人の口からであった。


 先に知らせをやってはいたが、知盛邸では子供を預かることなど滅多にない出来事である。安芸を中心に子育て経験のある女房が揃っていればこそ何とか体裁を整えることはできたが、じっとりした視線で「もう少々後先のことを考えてくださいませ」と、嫌味とも苦言とも取れる釘を刺されている。
 数刻前に一門の上層部に穏やかならざる一石を投じたことなどどこ吹く風。今日も今日とての私室に面した簀子縁でゆらゆらと杯を揺らし、ふと思い立った様子で知盛は隣に控える娘を振り返った。
「名を、思いついた」
「……名前ですか?」
 唐突な宣言は、首を傾げるに十分なもの。あえて名を与えねばならない存在があるとすれば、それは拾ってきたあの子供。だが、彼は帰路において名を問うたに「次郎丸と呼ばれておりました」と答えている。次男であるから、という理由なのだろうが、それはそれで立派に名前であると判断していたのだが。
「改めて命名なさるということですか?」
「名は守護であり枷でもある……。俺がアレに名を与えれば、それはまず一つ目の枷となり守護となり、いかな形であれ、縁になる」
 薄く笑いながらの言葉ではあったが、それは恐ろしいほどの策謀であり慈愛であった。意味の篭められた呼称をもって呼ばれることは、己に求められるもの、課されるものを知り、いつしか浸透するということだ。次郎丸と、その名はあの子供に恐らくはこれまでの甘やかな時間を思い起こさせるための呼び水にしかならないだろう。もはやそれは許されないことなのだ。
 名を改めて与えられれば、その現実を思い知らせ、彼の立ち位置を知らしめるがための枷となる。知盛が自ら名をつけたとあれば、子供の存在をどれほど疎ましく思うものでも、おいそれと手出しはできない対象であるという牽制になる。どこまで、何を考えての行動か。その真意はわからないが、恐ろしくも優しきことだと、はそう思う。


 どうやら思いついたという名が随分と気に入ったらしい。上機嫌に目を細め、酒を舐めながら知盛は低く低く、声を紡ぐ。
「ノゾムと、しよう」
「一体いかな字を?」
 与えられた音に対して思いつくのは“望”の文字であったが、かくも機嫌がいいということは恐らく文字のひとつに対しても何がしかの深い意味があるのだろうと推測し、は素直に問いを返す。その問いが予想通りであったことが面白かったのか、それともやはり文字そのものへの思い入れが深かったのか。にっと口の端を吊り上げてから、知盛はわずかに腰をひねって床に指を滑らせる。
「希なる、と?」
 すらすらと流れた指によって描かれる形から“希”という文字を当てるのだと知り、意味を考えて問いを重ねるが、肯定ではなくくつくつという笑声が返されるのみ。
「それでは、面白くもあるまい」
「では、どのような意味が?」
「意味は、さほどもないさ……。そうだな。希望に満ち溢れた道を、とでも?」
 それをこそ声に力を篭めて紡ぐべき言葉をあまりにも気のない調子で織り上げて、知盛は嗤う。
「アレの父の名を、知っているか?」
「いえ」
「希義殿と、申されてな」
 そこまで聞いて湧いたなるほどという得心が、どうやら苦みばしる表情として現れてしまったらしい。質の悪い笑みをにったりと浮かべて、知盛はいっそうっとりと謡い上げる。


「平家一門が嫡流である俺の“息子”が、仇敵たる源氏の嫡流の方の名を継ぐ……音も字もうってつけだ。かほどに美しき皮肉は、そうそうあるまい?」
 差し向けられた問いかけには大いに同意するところだが、それは世の中の理不尽を知るだけの時間を積み重ねたからこそ耐えられる皮肉だ。それこそ指摘にあったとおり、配流の憂き目をみたとはいえ、かの子供は清和源氏の嫡流の血筋。武家の人間としての心構えは叩き込まれていたらしく、必死に強がって背筋を伸ばしている姿は心地良い。だが、そうして強がれることとそれを正面から皮肉に篭められてなお耐え切れるか否かは、まったく別の話なのだ。
「………せめて、ご当人には伏せられるか、告げられるにしても時間を置いていただけますよう」
「おや。月天将殿は、子供には随分と甘いご様子」
「血の縛りから逃れられぬことは事実として、拾い子をあえて虐げる理由はありますまい」
「無論、俺とてアレを虐げるためにそう呼ぶわけではないさ」
 憐憫と大いなる同情を篭めてそっと進言すれば、からかい混じりに笑われる。そして、ふと改められた声音と共に、視線が遠く空をさまよう。
「己の真なる由縁さえ知らぬままでは、あまりにも情けないではないか」
 言って杯を宙に伸べた様子に、はその真意の一端を悟ってそっと目を伏せる。これは、哀悼なのだ。武門の者としての矜持を貫いて死んだ敵への、ひとりのもののふである主からの。その敬意にも似た思いを否定するつもりは、微塵もなかったのだ。

Fin.

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