朔夜のうさぎは夢を見る

あなたのことば

 その日から、希の日課に加わったことがある。昼下がりから夕方のあたりに裏庭に出向き、日向ぼっこをするというものだ。時にそこには朔が同席するし、景時が洗濯物を干していることもある。望美が剣の鍛錬をしていることもあれば、一人で舞扇を翻していることもあった。
 剣に興味があると知ったことで、どうやら望美や九郎の中には希への気安さが芽吹いたらしい。それまでに比べれば格段に気楽な調子で声をかけ、修練を積む様を惜しげなく披露してくれる。
 まだ、あの小太刀を鞘から抜き放つ勇気は持てなかった。それでも、かつて己が施されたのとは違う型で勇壮に織り上げられる剣技の数々に、希は魅了され、惹きこまれている。
 彼らは、戦場であの人達とまみえたことがあるのだろうか。彼らなら、あの人達に並び立てたのだろうか。自分にもし、彼らほどの力があったなら。
 脳裏をめぐるのは、どうしようもない仮定の話。その思索に意味はないと、けれど察して叱ってくれる人は、遠い。


 徐々に、しかし確実に。心を開いてくれる希の様子に、望美は素直に喜びを覚えていたし、九郎は大袈裟なまでに安堵していた。ヒノエの立てた推論は、ことごとく大当たり。平新中納言による養育の噂は、どうやらすべてが真実だったようだ。
「だいぶ進歩したと思いません?」
「そうだね。表情も、かなりやわらかくなったと思うよ」
 望美ちゃんのおかげだね、と。笑う景時にはにかんで、望美はこれで何度目かを数えるのも馬鹿らしくなった要請を、今日も懲りずに繰り返す。
「でも、まだ足りないですよね」
「まあ、焦ったらだめだよね。ゆっくり待ってさしあげればいいんじゃないかな?」
「ゆっくり待ってたら、希くんの体力が空っぽになっちゃいますよね」
「うーん、と」
 のらりくらりとはぐらかしたくても、目を逸らすことのできない現実はどうしたって目前に存在する。ヒノエの入れ知恵からはや二月。ある程度気持ちがほぐれたことが何らかの作用を及ぼしたのか、希はますます食欲をなくし、そのことに本人こそが困惑をみせている。


 望美の言い分は実に正当で、まっとうだ。つまり、さすがに見兼ねるから、何かしらの助言をくれるよう知盛に再度打診してほしいというのだ。
 何が正解かと問われれば、それこそが正解だ。そんなこと、景時だってわかっているし、九郎ももちろんわかっている。けれど実施できないからには、実施できないなりの理由があるのも現実。その理由の真髄が源氏の中でも中枢のごく一握りしか知らないないようであることを正しく理解していればこそ、景時はやはり、苦しいながらも曖昧に望美の要求をはぐらかさざるをえないのだ。
「別に、顔を出すのが嫌なら、それはそれでいいんです。希くんを捨てたようなものだから、顔を合わせられないっていう気持ちもわかります」
「それは、九郎が?」
さんです」
 やけに確信をもって告げられた心情の推論はやや過激なものだったが、出所を問い合わせて、景時は何とも複雑な気分になる。おそらく、取り合ってくれない九郎に業を煮やして望美が直接、に交渉したのだろう。その結果、あえなく敗退した、と。
「もう! どうしてみんな、そんなに渋るんですか? もしかして、何か隠してません?」
「いや、渋っているっていうか、いろいろ事情がね」
 ぷりぷりと頬を膨らませる望美についうっかり口を滑らせかけ、景時はすんでのところで踏みとどまる。
「とにかく、もうちょっと時間をくれないかな。知盛殿には、俺からもお願いしてみるからさ」
 うっかり、これ以上の頑なさをみせては、今度こそ逆効果になるだろう。適度なところで妥協を示して、景時は胸中で冷や汗を拭う。まあ、この程度ならば許されるはずだ。一応、話はそろそろ大詰めにさしかかっているのだから。


 もっとも、そんな遣り取りを希が知るはずはなく、不安定さを孕んだ非日常は、確かに穏やかに積み上げられていく。夏の盛りが過ぎ、そろそろ風が涼しくなってきたからと言って鎌倉からは新しい衣が届けられた。丁寧で几帳面な縫い目は、何と政子直々のものであるらしい。
 あまりにも、あまりにもたくさんの優しさに包まれて生きている。それを実感しているのに、動き出せない。動くことができない。
 毎日、ぼんやりと庭を眺めているだけと思われているかもしれないが、希はこれでも、必死になってものを考えている。どうすればいいのだろう。どうすべきなのだろう。
 なんとなく、正解は見えている。ただ、そこに辿り着くための道筋も手立ても思いつかないから、心底困っているだけ。
「……生き様を、見せてくださるのではなかったのですか」
「俺としては、この上なく惜しみなく、見せているつもりなのだがな」
 無意識のうちに独り言が零れたのは、周囲に誰もいなかったから。だというのに的確に返された言葉に、希は全身で音源を振り返る。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。