朔夜のうさぎは夢を見る

呼ぶ声はそこに

 希は邸の南側に部屋をあてがわれているため、目的地に向かうためには、ぐるりと簀子縁を一周する必要があった。普段は目にしない庭の様子や邸の別の部屋の様子に興味を惹かれつつ、辿り着いた先ではまるで戦場でのやり取りのように、鬼気迫る様子で木刀が討ち交わされている。
「おや、珍しいお客さんだね」
「ヒノエ殿。すぐに戻られるのではなかったの?」
「せっかくだから、久しぶりに二人の様子でも見ていこうかと思ってさ」
 目指す先には、鮮やかな赤髪を湛えた青年が座っていた。気楽な調子で朔を振り仰ぎ、にっと吊り上げられた口の端はそれでもどことなく優雅な気配を醸す。
「そちらは?」
 それからごく自然な流れで視線を滑らせ、小首を傾げる角度さえも魅惑的だった。だが、希とて権謀術数のなんたるかを知り尽くした男に育てられ、好機と値踏みを視線にさらされ続けていたのだ。たとえ彼に比べてまだ幼くとも、その双眸の奥にちらとよぎった光の意味を、読み違えはしない。
「兄上が、しばしお預かりしているのよ」
「希、と、申します」
 当たり障りなく応じた朔の後ろから一歩を踏み出し、軽く会釈をして希は青年に向き合う。
「オレはヒノエだよ。九郎や望美とは、まあ、それなりの古馴染みってとこかな」


 与えられた、偽りではないが真実を錯覚させそうな言葉に、希は内心で小さく皮肉に濡れる笑声をこぼす。なんと白々しい。そしてこれこそ、きっと彼のような立場の人間に求められる演技力。
「和議の席にて、お見かけいたしました」
 出し抜いてみようと、思う心がなかったと言えば嘘になる。けれど半分は純粋な気持ちで見知っていることを伝えてみれば、ヒノエはぱちりと目をしばたかせ、それからなぜか、どこか切なげに笑みを歪ませた。
「よく見てるね」
「あの場においでだった皆々様は、和議の礎を築き、未来を拓く方々。しかと憶えおくよう、言いつけられました」
「正しい助言だね。そして厳しい忠告だ。お前は、その言葉が孕む真意を、ちゃんと理解できているかい?」
 誰が、というのは口にしなかった。横目にちらと見やった朔の表情に動きはない。ただ感心の色を浮かべるのみ。だが、ヒノエは違う。呆れたように、切ないように。笑って、眉尻を下げる。
「未来を担う重鎮の方々を、決して見誤らないように、と?」
「半分正解。ただ、足りないよ。きっと、ソイツはこう言いたかったのさ。――お前を駒として利用したがるだろう奴らの顔を覚えて、ちゃんと身を守るように、ってね」
 告げられた言葉に、希は視界が真っ白になったような錯覚を覚える。
 皮肉気な笑みは見慣れていた。だから、言葉には字面通りの意味と共に、何かしらの思惑が潜ませてあるのだと悟ることはたやすかった。けれど、それは分かたれた先で未来へ進まねばならない自分への、覚悟を促す言葉でしかないと思ったのに。
「名の負う重みを、見誤っちゃいけないよ。情勢が落ち着くには、まだ時間が足りない」
 お前を利用したい輩は、ごまんといるんだ。
 言い放つ声は冷厳で、紡ぐ声は悲しげ。彼こそは、還内府が、新中納言が、和議の仲立ちをと願い出た熊野別当。かほどに優しい人に守られているのなら、なるほど、熊野に彼らが心を寄せたことを、希も強く納得できる。


「あ、希くん!」
 間近で響いていたはずの木刀を打ち合う音は、いつの間に止んでいたのだろう。しんと張りつめているような気さえした空気を、明るい声が軽やかに吹き飛ばす。
「どうしたの? こっちに来るのは珍しいね」
「鍛錬していることをお伝えしたら、興味があるようだったから」
 希らが立ちつくす簀子縁に駆けよって、息を乱した様子もなく、上気した頬に笑みを刷いた望美は朔の言葉に「そうなんだ」と頷いた。
「うるさくなかった? 本を読むのに、邪魔だったとか」
「……いえ」
 ちょこんと小首を傾げて問いかける瞳は、先ほどのヒノエのものと違ってどこまでも澄んでいる。言葉の裏に潜ませた思惑などなく、希の行動や思いを疑うこともなく。
「お邪魔はしませんので、こちらで少し、拝見していてもよろしいですか?」
「邪魔なんじかじゃないし、興味があるならやってみる?」
 気づけば九郎も距離を詰めており、振り返りながら同意を求める望美に、鷹揚に頷き返す。
「そうだな。荷の中に小太刀があったようだし、少なからず、関心はあるんだろう?」
「関心は、ありますが」
 畳みかけるように問いかけられ、希はぐっと言葉に詰まる。
 関心はあるし、ちらと垣間見ただけではあるが、さすがに九郎も望美も大層な手練れであるように思われた。基礎をみっちりと叩きこまれた体が、動いてみたいと疼いているのを感じている。
「九郎殿、望美。あまり、無理を強いないで。希殿は、こちらにおいでになった頃よりはずっとましになったけど、あまり体調がよろしくないのよ」
「あ、そっか」
「確かに、いきなり木刀を握るのでは、少し唐突に過ぎるか」
 動きたい。けれど、動けない。そんな葛藤を汲み取ったのか、横合いから口を挟んでくれた朔によって希と九郎の視線は逸らされ、二人で納得しあって再び庭の奥へと戻っていく。


 そのまま向き合い、ひとつ礼を挟んで打ち合いへと戻ってしまった二人を見やる真剣な横顔をそっと観察して、目を見合わせた朔とヒノエに、希は気づかない。噂はあくまで噂にすぎないからと、その中でも興味の方向性や真偽を確かめやすかろう項目を検証することにした彼らの策は、どうやら見事に読みが当たっていたらしい。
 打ち合いがひとまず終わったところで、機を見計らったように立ちあがったヒノエが、庭に向かって声を放る。
「じゃあ、オレは戻るよ」
「うん。ありがとう。ヒノエくんのおかげで、少し進みそう」
「ああ、助かった」
 朗らかに笑う望美の言葉はどこか抽象的だったが、受け止めたヒノエは心得たように笑っているし、それを見やる九郎もどこかほっとしたように表情を緩めている。
「まあ、まためぼしい情報があったら持ってくるよ。姫君達も、ほどほどにね」
 ひらりと手を振って、立ち去る背中は堂々と揺るぎない。軽く腰を折って見送りなが、希は内心で唇を噛む。あんな風に、堂々とありたいのに。

Fin.

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