振り向いて
詳しくは知らないけれど、と。前置きをしてから、ヒノエは徒然に、希がかつて過ごした日々についてを九郎と望美に語って聞かせた。
戦火の中で拾われたこと。知盛を父と呼び慕っていたこと。邸の女房達に可愛がられ、郎党達からも親しまれていたこと。教養から歌、楽、舞、剣や弓、馬術に至るまで。ほぼすべてにおいて知盛が手ずから指導を施し、自身の息子として、どこに出しても遜色のないよう徹底的に育て上げていたこと。
に懐き、よく一緒になって水菓子をつまんでいたらしい。その様子を見かけて割り込んだ知盛と仲良くじゃれあう姿は、本物の親子にしか見えなかった。二人が戦で邸を空ければ、心細げにしながらも強がっていた。帰還した際には誰よりも一番に出迎えるのだと飛び出していき、病臥する知盛の枕辺に寄ることを許された、数少ない例外の存在にまで上り詰めた。
「知盛がどういうつもりだったか、真意なんて知らないけどさ。あのガキは、確かに幸せだったんじゃないの?」
語られるそれは、ありふれたと呼ぶにはあまりにもあたたかな、家族の肖像だった。
「血の縛りは重い。それは、オレやアンタが一番わかっていることだ」
溜め息交じりに、若き別当は実に老成した声で言葉を重ねる。
「それでも、思うよ。“家族”ってのは、いったいどうやって成り立つんだろうね」
問いかけは、あまりに重い。
もちろん、希とて己の立場や己を取り巻く環境、状況についてはしかと理解している。ままならない体調不良への苛立ちは募るばかり。本来ならば、こうして床に伏せっては与えられる書物を読み、顔を見せに来てくれる九郎や望美に応えるという生活を送るべきではない。そのことぐらい、わかっている。
今の希の立場は、鎌倉にいる源氏棟梁夫妻の義息子なのだ。源氏嫡流の血脈として、学ぶべきことは恐らく山のようにあり、顔を繋ぐべき相手も、己が人品卑しからぬということをそれとなく示して歩かねばならない相手も、山のようにいるのに。
しっかりせねば、自立せねば。
そう思っているのに、体が食べ物を受け付けず、深く眠ることさえできない。時を問わず、ただうとうととまどろむことしかできない。
頼朝が、わかりにくいながらも心配してくれていることは感じ取っていた。政子は実にわかりやすく希を気遣ってくれていたし、何より、二人とも希が示す精一杯の礼節と態度とに、いたく感心を示してくれた。
さすがは、と。それはきっと単なる感想だったに違いない。けれど、希にとっては至高の褒め言葉だった。
さすがは新中納言が養ってくださっただけのことはある。そう呟いた棟梁の双眸は深く感慨を湛え、正室の笑みは実に満足げ。恥じることなく、己は己の身を通じて、敬愛する人々の素晴らしさを彼らに伝えることができていると実感できた。それを積み重ねていけるのだと、未来に対して希望を抱けた。だというのに、何という無様さなのか。
鎌倉から京までの道を共にした九郎は、不器用ながらも必死になって希を励まそうとしているのが明白だった。連れられた邸で出会った景時は、礼節の中に気安さを紛れ込ませた絶妙な距離感で希の緊張をほぐそうとしてくれた。まみえた龍神の神子達は、伝承に聞くよりもずっと魅力的で慈悲深く、希の心に優しく触れる。
供される食膳は豪奢とはいわないがとても充実しているし、書物を読みたいと言えば選ぶのに迷うほど与えてくれる。実に恵まれた生活だ。それはきっと、都落ちという過酷な日々を送った過去がなくとも、気づけるだろう程に。
体力が足りないのかと、動いてみようとしたこともある。持ち出すことを許されたあの小太刀を、けれど希は怖くてあの和議の日からこれまで、一度も抜けたことがない。
今の自分は、きっとろくな動きができるはずもない。体力だとか技巧だとか以前に、心構えとして。
こんな気持ちで刃をかざせば、そこにはどれほどみじめな表情の己が映るだろう。
こんな気持ちで型をなぞれば、どれほど無様な太刀筋が曝されるだろう。
それを直視して、果たして己は、このかろうじて矜持を保つ心を、壊さずにいられるだろうか。
答えは否だ。自問するべくもない。ゆえに、希は何をすることもできず、ままならない体を嘆きながら、心の奥底でざわめき続けるさざ波が納まるのを、切実に待ちわびている。
つらつらと書物の文字を追いかけていた目をふと持ち上げて、希は御簾の向こうから呼びかけるたおやかな声へと向きなおった。どうせ物思いに耽っていて、内容はろくに頭に入っていない。せっかく貸してもらったのにこれでは失礼極まりなかろう。後からまた、きちんと読みなおさないといけない。
そんなことをやはり頭の隅でぼんやり考えながら、そっと距離を詰めてくる朔をなんとなしに見つめていた希は、どことない違和感に小さく首を傾げた。
「望美でしたら、九郎殿と鍛錬をするのだとかで、邸の裏にいますよ」
「そうですか」
すぐさま察したらしい朔がくすりと微笑みながら与えてくれた答えに、希は小さく顎を引く。言われて、今日は九郎が梶原邸を訪ねる日だったと思い出す。思い出してしまえば、違和感はあっという間に納得の根拠に変化する。
「希殿も剣を嗜まれるの?」
暑くも寒くもない初夏の風に、そういえば木刀を打ち合わせるような鈍い音が聞こえる。つい耳を澄ませている様子に興味をひかれたのか、清水の入った椀を差し出してから、今度は朔が小首をかしげる。
「ほんの嗜み程度ですが」
「さすがは武門の男子ね」
ふふふ、とやわらかく微笑んで、朔はふといたずらげに瞳をきらめかせる。
「せっかくお天気もいいことですし、日を浴びがてら、少し様子見に出てみません?」
次いでかけられたのは、希にとってはいささか予想外の、誘いの言葉だった。
Fin.
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