岐路と知っていた
和議締結に向けた協議のために知盛らが京に向かうのを見送った。そこで源氏方や朝廷とあらゆる話し合いを重ね、そうやって和議が成立していくのだと聞いた。けれど、希の日常は何も変わらない。知盛に先日言い渡されたとおり、何をすることもなく、これまでと同じ時間を同じように過ごしている。ただ、毎日の積み重ねを、切なく愛しく惜しんでいるという違いはあるのだが。
やがて紅葉が完全に散った頃、交渉の席における和議の内容合意の報せが届き、福原に留まっていた一門の中枢人物達は京へと居住を移した。その一行にはもちろん、希も含まれる。
いよいよ終焉が近付いてきたと噛み締めながら、過ごすは師走の慌ただしき日々。残された時間を惜しむ暇さえ許されるわけがない。積もり積もる疲弊に耐え切れなくなったか、床に臥す“父”の枕辺でほんのわずかに距離の近さを愛でた。それだけを忘れ形見に、希はいよいよその身に白を纏う。
目が灼けそうなほどに見事に晴れ渡った蒼穹の下、交わされるは平和な未来への約定。両家に預けられた人質の代表として舞台に上げられていた希は、誓約書への調印を見届け、そして己の足で平家を去り、源氏へと踏み入る。
「なるほど、確かに」
ひたと見据えてくる暗緑色の瞳は、知盛のそれと似て非なる底知れなさを湛えて遠慮容赦なく希へと降り注いだ。醸し出される威圧感は、さすがは一代にてここまで源氏を引き上げた傑物。腹に響く声と相まって身がすくみそうになるのを、丹田に力を篭めて必死に耐える。
「確かに、希義の幼き頃によく似ている」
「……お父君に似ておいでか否かは、存じ上げぬが」
懐かしむという視線ではない。ただ、自分はこの段になってなお存在の真偽を疑われていたのだ。成さんと決めた覚悟が根底から覆される予感に、これまでの白の上に紅を纏うこととはまったく違う警戒心が、じりじりと胸から滲みだす。しかし、頭上で交わされるのはいかにも白々しく当たり障りのない会話のみ。
養育を預かったという理由から交換の場に同席していた知盛は、いつも以上に色のない声で淡々と言葉を紡ぐ。
「希義殿のご子息であることに、偽りはなかろう……。あの邸に、もはや命あるものは、そこな御曹子殿しかおられなかったゆえ」
「別に、疑っているわけではない」
低く笑声をこぼし、じっと希を見据えていた源氏の棟梁はようやく視線を持ち上げて対面する平家が将を見遣る。
「これまでこうして育ててもらったことに、礼を言うべきか」
「互いに、害わぬべき命を見誤らなんだ、と。……そういう、ことであろう」
「これは、さすがは新中納言殿」
言葉の裏に含まされた意味をすべて汲み取ることなどできない。そして、言葉そのものから汲み取る意味に、希は胸が音を立てて軋むのを聞いている。自分は、“父”にとって道具にすぎなかったのだろうか。源氏という名を纏う、動かしやすい駒として永らえさせられたのがすべてではないと、信じていたいのに。
覚悟が揺らぐ。振り返り、踵を返し、縋りつきたくなってしまう。けれど、それは許されないし、そんな無様な姿は曝したくない。ぎりぎりと奥歯を噛み締め、滲みそうになる視界を必死に堪え、希は譲れない願いに思いを馳せる。
この場で交わされるのは、平家側からは希であり、源氏側からは平家の血を引く公達として、平敦盛。和議の儀式の席に見当たらなかった“母”は、きっとこの後、控えの間で行われると聞く残る面々の交換にて“父”の許に戻ってくるのだろう。その場に居合わせられないことが切なくて、その無事をこの目で確かめられないことがもどかしい。
けれど、こうして無事に和議が成ったということは、きっと彼女は生きている。それだけは迷いなく確信が持てて、ようやく“父”の手元にあるべき平穏が戻ってくることだけは素直に喜ばしい。
だって、たとえ仮初だったとしても、その思惑の深奥が別の方向を向いていたとしても、希にとって彼らと過ごした日々は間違いなく至高の思い出なのだ。誰にも穢されたくない、誰にも許すつもりはない、希だけの宝物。
たとえこの身が知盛やにとって取るに足らないものだったと思い知らされたとしても、あの日々に降り積もった優しさは本物だから、希が二人を思う気持ちも、ひとかけらの曇りもなく本物なのだ。
Fin.
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