朔夜のうさぎは夢を見る

不可避の喪失

 そのまま他愛のない話をしてから、将臣が希の許を辞したのは日が暮れてからのことだった。時間も時間であり、どうせ知盛も邸の家人も慣れている。ついでだから夕餉を取っていってはどうかと勧めたのだが、何やら仕事がまだ残っているらしい。
 院宣を携えた使者は見送ってあるが、その後の諸事が片付き切っていないのだろう。そんな状況にあってなおわざわざ希の許に出向いたという事実が、課された役回りの重みを雄弁に訴える。
「これで、正しいんですよね」
 あの優しき総領は、その溢れんばかりの存在感と明るい性格が相まって、ひどくにぎやかな印象を振りまく。その分、彼が去った部屋の中がやけにもの寂しく感じられて、希はもはや習慣となってしまった刀を抱いての独り言を紡いでみる。
 別に、誰かに聞いてほしいとまでは言わない。これは、自分で定めねばならないこと。そうと知ってはいるのだが、胸の内に沈めておくにはあまりに重すぎる。
 最悪の報せを覚悟せよと、そう告げられてから半年と少し。慌ただしく動き回るため、ろくに邸に寄り付かなくなってしまった“父”の不在への不安も含め、ゆらゆらと揺らぐ内心をどうすればいいかと考え、縋り続けたのは“母”に所縁の、“父”との共通項を何より彷彿とさせる品。


 物言わぬ刃は、鞘から引き抜けば己の姿を映す鏡となる。情けなく歪んだ表情を確認しては歯を食いしばり、稽古における剣筋の乱れを思い知っては修練に没頭し。いつか、いつか必ず追いついて、きっと彼らのためにと。それだけを考え続けてここまで来た。今こそは確かに、彼らのために立ちまわれる時。自分にしかできないことがある。
 けれど、その先にある結末は、直視したくないほどに残酷なそれで。
 いたずらに水気を与えれば傷む原因となろう。じわりと歪む視界を自覚し、希はぐすぐすと鼻をすすりながらまず刀身を鞘へと納める。行きつく未来が見えないほど暗愚であるつもりはない。ただ、その瞬間が訪れた時、たとえ許されまじきわがままだと言われようがなんだろうが、せめて縋りつけるだけの所縁の品を携えるつもりがあり、それはきっとこの小太刀になるだろうと考えている。こんなところで、損なわせたくなかった。
 ようやく巡ってきた好機だ。それは間違いない。第一、泣いたところで何になる。嫌だと叫んだところで、聞き入れられるはずはない。身が引き裂かれそうな内心の矛盾の声から必死に耳を閉ざし、希はせめてと願って眉間に皺を寄せ、床に置いた小太刀を見据える。
「清和源氏が裔、源義朝が子たる希義の血脈」
 郎じるは、いつか必要になる時が来るやもしれぬと、嗤い混じりに“父”から教わった己の血を示す言葉。そして、己の生きる覚悟を示す言葉。
「望みて纏いしは紅。――我は、平知盛が子。名を、希と」
 視界を閉ざし、思いを沈める。脱ぎ去らねばならない未来が見えればこそ、きっと近く名乗ることを許されなくなるだろう名を。決して穢すことのないように、心の中の一番大切な場所へと。


 声を絞り出し、両手を握りしめ、ひたと内心を見つめる希の視界に微かに揺れる御簾の姿は映らない。わずかにのぞいていた影が見えるはずもなく、まして立ちもしない足音が届くはずもなく。
 背中に遠ざかる押し殺された嗚咽をぼんやりと聞きながら、知盛は視線を宙に投げる。
 逃れ得ぬしがらみに雁字搦めにされているのは、さて、誰であろうか。苦悶に呻き、選びとれない道に慟哭し、己が欲を満たすために邁進するのは人の業。その代価として、帰結として、まるで監獄のようなしがらみの渦に叩き落されるのはいかんともしがたいこと。けれど。
「まったく……、度し難い」
 それは、そんなすべてを見やりながらも何もできない己がか、幼いながらに巻き込まれた世の不条理を嘆くことさえできない幼子がか。
 ゆるりと息を吐き出せば、重苦しい溜め息となってしまった。思いがけず、身内に降り積もった拭いようのない疲れを知る。それでも、まだ休むわけにはいくまい。
 忙しくなる。ようやく、ようやく手が届くのだ。望んでいた終焉とはだいぶ色味を異にしているが、成そうと決めたからには成し遂げることが知盛の矜持。在るべきものを、在るべきところへ、在るべきように。
 すべてが片付いたら、きっと自分の周りはまたいつかのように虚ろで味気ない世界へと堕ちていくのだろう。その確信を引き寄せてしまったかつての己の選択が、なんだか無性におかしかった。

Fin.

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