朔夜のうさぎは夢を見る

そして知る

 もっとも、まだ何が終わったわけでもない。むしろ、ここからこそが正念場。状況の何を知ることもできずに邸でおとなしくしていることしかできない希に、そう教えてくれたのは“父”と同じくばたばたとせわしなく動き回っている“叔父”だった。そして、それからさほども経たぬうちに、希はさらに衝撃的な現実を目の前に突きつけられることとなった。
「質、ですか?」
「ああ」
 久しぶりにも程があるまっとうな対峙の場面だというのに、感慨などまるで滲ませもせず、常と変らぬ淡々とした声音がごく静かに言葉を積み重ねていく。
「こちらからは、月天将殿と、大夫殿がおられる。……それと、同じことだ」
「悪ぃ。何とかしてやりたかったんだけど、向こうから指名が入っちまったんだ」
 感情の揺らぎをまったく感じさせない深紫の双眸の隣では、苦り切った紺碧の双眸が苦渋に満ちて歪められていた。
「平家の公達と新中納言の腹心に匹敵して余りあるって、そう言われちまったら、こっちとしては何とも言えねぇ」
「……わかっています」
 ああ、これが何度となく釘を刺されたことの意味かと、希は将臣に答えを紡ぐ口の動きとはまったく別の次元で、そんなことを考えていた。これが、名を負うということ。血に縛られるということ。


 和議は成るだろう。院宣が下ったのだという。そうなれば、源氏方の思惑がたとえどこを向いていようとも、そうやすやすと抗えるはずもない。彼らこそは朝廷の意向を受けて平家追討の大義名分を掲げていたのであり、仮に彼らが院の決定に歯向かうのであれば、次に大義を得るのは平家なのだ。
 院の意向は眩く、院の権力は重い。その決定は、この国に住まうすべての者にとって問答無用で“是”となる決定。覆すにはあまりにも大きな犠牲が必要であり、それにほど近い偉業を成し遂げた優しく強き総領のために、“父”のために。己の宿す血が使えるのなら、なんだってできると希は思う。
「それで、ボクは何をどうすればいいんですか?」
「お前――」
 膝の上に揃えた指先は、冷たく凍てつくようだった。体温がすとんと抜け落ちて、床にぶちまけられたような錯覚。それでも覚悟は変わらず、声が無様に震えなかったことを、誇らしいとさえ感じる。
「別段、今は何も必要ない」
 切なげに言葉を切った将臣とは対照的に、ほんのわずかに両目を細めて、知盛は淡々と説明を続けた。
「お前の身元なぞ、知る者は皆知っている……。和議の成り、源氏方にその身を返すまで、健やかにあることだな」
 色も温度も何もない、透明な声。いつもと何も変わらない口調。それは“父”の強さを示すものであり智謀を示すものであり、希の憧れにして誇りの具象。けれど、今はその静けさが恨めしくもある。
「しかと、承りました」
 頭を下げながら放った声がやけに遠くに聞こえて、歪む視界が悔しくて。ばれなければいいと願いながら、希はぎゅっと両手を握りしめる。


 常であればそのまま酒宴になだれ込むところだったろうに、なぜだか今宵は例外だったらしい。総領とその右腕とみなされる新中納言の前を辞して自室に戻っていた希は、簀子の板敷きを踏むぺたぺたという足音に客人の来訪を察し、向き合っていた刃を鞘の内へと戻して居住まいを正した。
「邪魔していいか?」
「どうぞ」
 絡げられた御簾の向こうから声をかけてきたのは、人好きのする眩い日差しのような笑顔。宵闇を背にしてなお、この人は真昼の青空を連想させる。
「何してたんだ?」
「刀の手入れをしていました」
 積んであった円座を持ちだし、そのまま上座を譲ろうとした希に「サンキュ」と笑いかける笑顔はまっすぐなだったが、問いへの返答に表情が蔭りを帯びる。腰を落とす動作に合わせて気分も沈んでいるように見えて、その人の良さと気取らない気性に、希は思わず苦笑が滲むのを止められない。
「それ、胡蝶さんのおさがりだったっけ」
「はい。父上が、月天将殿の武勲にあやかれるように、と」
「胡蝶さん、強いって聞くしな」
 俺、実は見たことねぇんだけどさ。そうほろ苦く呟いて、将臣はふと表情を改める。


 見据える視線は鋭く重く、ああ、この人もまた平家の誰もが恃みにする稀なる将なのだと、希は素直にその事実を羨ましく思う。その領域は遠くとも、その傍らにて共に駆けられるほどの力があれば、どれほど良かっただろう。
「お前、これでいいのか?」
 けれど、噂に聞く通り、同時にこの優しき総領は異世界の人間なのだ。そこが微笑ましいのだといつだったかに語っていた知盛の切なげな声を、ぼんやりと思い起こす。
「人質としての立場を認めるってことは、和議が成ったら、源氏に行かなきゃいけないってことだぞ?」
「……はい」
 わかっているし、覚悟はしている。けれど、“父”は『返る』といい、“叔父”は『行く』といった。そんな些細な部分にさえ喜びと未練を抱いてしまった自分に、過ごした時間の重みと深さを思う。
「今ならまだ、他に手立てが、」
「将臣殿」
 だが、だからこそ希は覚悟を決めたのだ。ずっとずっと、“父”や“母”の力になりたいと願い、力のない自分が悔しかった。その自分がようやく“自分にしかできないこと”を成せる場に立ったというのに、なぜその責から逃れるというのか。
「ボクは、この責務をボクにと託してくれた父上の信頼に、応えたいんです」
 無論、それは希望的観測だ。血筋だとか立場だとか、そういった事情こそが希に白羽の矢が立てられた理由であることは知っている。それでも、そう信じていたかった。そう信じることで、些細なきっかけで崩れてしまいそうななけなしの矜持を、確かなものにしておきたかった。
 透明な笑みを浮かべることができたと思った。その瞬間、くしゃりと表情を崩してしまった将臣にきつくきつく抱きしめられる。
「ごめん、ごめんな……ッ!」
 力強く遠い腕の中で、希は苦しげに震える声による慟哭にも似た謝罪を聞きながら、静かに視界を閉ざしていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。