朔夜のうさぎは夢を見る

思惑はいずこへ

 厄介なことだと。溜め息をつくことさえもはや諦めの彼方に追いやってしまった主の悪癖のひとつに、放浪癖があるとは考えている。当人の中ではある程度以上の理論立てが成り立っているらしいが、説明もなければ見て察することも困難となれば、それはひたすらに厄介な気紛れさ。誰も止めようとせず咎めようとしないのは、立場が云々ということもあるが、すなわち彼のそういった気紛れのような理屈が、後々になって浅からぬ意味を持つという事実が浸透しているためである。
「戻れと……言ったと、思うが?」
「わたしがひとりで戻っても、将の皆々様の頭痛を悪化させるだけです」
「俺の代わりに指揮を執る、と。そう言っていただいても、良いのだぜ?」
「いずれはそう申せますよう、精進いたします」
 炎の只中からゆらりと踏み出し、常とまるで変わらぬ調子で頭から被っていた衣を捨て去る。地に落ちるのを待たずに消し炭と化した様子からして、何がしかの術でもかけていたのだろう。そのままちらと視線のみを寄越して進む半歩後ろにつき従い、そしてはようやく問うべき言葉を声に載せる。
「その子供を、いかがなさるおつもりです?」
「月天将殿のお考えは?」
「一悶着の予感とだけ」
 はぐらかすようでいてはきと返されたいらえに、知盛はくつくつと笑う。


 先に戻れと言われて、周囲に散っていた兵への伝令もあったは一旦は知盛の傍を離れている。同時に、ほどなくして飛び込んできた、火矢を射掛けた邸にあえて踏み込んだのだという報告には言葉を失ったものだが、その目的がよもや子供を拾うことだったとは考えがたい。
「御身にとっては、寝かしつける相手がひとり増えたというだけのこと。騒ぎというほどでもあるまい」
「佐殿、牛若丸殿の件をお忘れですか?」
 知盛は決して憐憫に溺れる性質ではないが、無慈悲でもない。生死のはざかいを感じられる戦場をこそ好んで駆け抜ける厄介な嗜好を持っている一方で、だからといって無駄な血を流すことをも好むような狂乱者ではないのだ。軍場にあるものなればたとえ誰であろうと、年齢も性別も委細を問わずに切り捨てるが、そこに立たぬものならば、必要がなければあえて刃を向けることがない。そう、たとえば先の報せと同時に齎された、邸から逃げ出した女達の命乞いを冷ややかに見遣り、そのまま見逃したという報告にあるように。
 それでもなお声が厳しくなったのは、同じ轍を踏む可能性を否定し切れなかったからだ。
「此度の一件も、元を辿れば相国様のご慈悲への仇」
 根絶やしにするのは忍びないと、まだ幼いと。そう情けをかけられて命を繋がれた源氏の血脈は、恩知らずにも命の恩人に対して叛乱の声を上げた。そして、目の届く位置にて緩やかに閉じ込めておいた子供は、いつの間にやら檻を抜け出してあろうことか平泉にて保護されているという。牛若丸。長じて後は義経と名を改める、それはの乏しい歴史知識においても燦然と光を放つ平家の宿敵。
「だからといって、コレが同じとは限るまい」
 だというのに、知盛は気にした風もない。


 陣に近づくにつれて見知った人影が増えていき、向けられる視線が増えていく。腕の中に意識を失った子供を抱えた総大将の姿など、配下の中で最も知盛との付き合いが長い兵であっても、初めて見る光景だろう。ありとあらゆる感情が交錯する視線の嵐の中を、知盛はけれど気にもかけずに悠々と進む。
「構わんさ。責は、俺が負う」
 どうせ何を言っても聞きはしないし、とてまだしがらみの何たるかさえろくに知らないだろう子供を殺すのは忍びない。助けられるならばそれに越したことはないという思いと、こうして助けることで再び不穏の芽を育てるのではないかという不安が、ぐるぐると渦を巻いて胸の底から離れない。
「それに、子を成せと言われ続けるのにも、いい加減飽いたしな」
 俯き気味に主の背を追っていたの上空から、軽やかに落とされたのは本心にして慰めの言葉だろう。気負う必要はないと、思惑あってのことなのだと。言外に告げる穏やかな声は、決して主が子供を慈悲ゆえに拾ったわけではないことを過たずに伝える。
「これもまた、ひとつの布石となりようゆえ」
 彼は、いったい何を見て、何を目指して、何をなそうとしているのか。遠く、まるで未来を見透かすかのようにして紡がれる声に、ふと湧き起こる疑問は小さな溜め息に乗って霧散する。
 そのすべてを共有してもらうにははあまりにも無力で、その腕の中で眠る子供と同じく、彼にとっての一種の庇護の対象でしかありえないと、知っていたのだ。


 予想は無論、微塵も裏切られることなどなかった。さすがに自分達の仰ぐ相手の気紛れさを熟知しているといえ、何事にも許容の限界が存在する。唖然、呆然、愕然。あらゆる呆気にとられた表情を見流して辿りついた陣の最奥の天幕にて、待ち構えるのは諦めと懇願の入り混じった家長の困惑顔。
「その子供を拾うことの意味を、わかっておいでですか?」
「お前は、俺が単なる憐れみのみでコレを拾ったと?」
「まさか」
「では、そういうことだ」
 諒解しあった会話は端的に終了し、溜め息ひとつで家長は「皆の様子を見て参ります」と言い置いて姿を消す。笑い混じりに「ついでにコレのことを言い含めてこい」との命を下した知盛の背に控えてあからさまに疲れを背負い込んだ背中を見送っていたは、そして早々に子供の世話を言いつかる。

Fin.

back --- next

back to あめいろの日々 index

http://mugetsunoyo.yomibitoshirazu.com/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。