朔夜のうさぎは夢を見る

潮は音を立て

 そして、何もかもが微塵も変化しない日常が続いていく。
 確かに欠けてしまったモノがあるというのに、なぜだかすべてがいびつに整えられて、齟齬なく回っていく。あの不可思議な夜闇の存在を、忘れようとでもするかのように。そこに在るとでも言うかのように。
 “父”の多忙さも、疲弊も、鬱屈もすべてはいつも通り。それらがまるで拭い去られる様子がないことだけが、いつでも彼の傍らに在った夢のような安寧の崩壊を静かに訴えている。
「おっ、希じゃねぇか」
 久しぶりだな。元気か。おおらかに笑ってそう声をかけられたのは、夏も間近に迫ったとある日の昼下がりのこと。特に用はないから、手習いが終わったなら久方ぶりに剣の稽古をつけてやろうとの約束を頼りに、姿の見えない“父”を探して邸内を歩き回っている最中のことであった。
 無論、角を曲がった時点で客人の姿は見えていた。見えてはいたのだが声をかけずに思わず足を止めてしまったのは、そこに探していた相手の思いがけない姿を見かけたからだった。


「お久しぶりです、将臣殿」
 どうしようという逡巡は一瞬と言うには長すぎ、けれどさほどの長さにも満たなかった。気配など殺してもいなかったし、客人の声は大きくもないが小さくもなかった。ならば、変に声を潜ませるだけ無駄だということもわかりきっていた。ゆるゆると距離を縮め、どうせすっかり目を醒ましているだろうにまったく反応を示そうとせず瞼を下ろしている知盛の頭のすぐ脇で、膝を折る。
 その様子を見ながら笑って首を巡らせてくれた青年のことは、元からそれなりに見知っていた。面会の許可を得ていなかったため遠目に垣間見ることが多かったのだが、知盛が直々に剣の手合わせをしている珍しい相手でもあったし、何やら食客がいるのだという噂は耳にしていた。
 こうして言葉を交わすようになったのは、一門が太宰府から長門へと拠点を移してからのことであった。初対面時に「マジで息子いたのかよ、お前ッ!?」という絶叫を与えたわりに、すぐさま希の存在を受け入れてこうして気安く接してくれる筆頭の位置を占めるようになるまでは、一日という時間さえ要さなかった。


 見慣れないことこの上ない光景は、どこまでも優しかった。瞼を下ろしているものの、きっと知盛は眠ってなどいない。それでも、こうして無防備に誰かの傍で全身から力を抜いているのは、その相手に心を許しているからだ。
「なんか約束でもしてたのか?」
「剣術の指南を、と。でも、お休みになっているなら、後にします」
「あー、そうだな。悪ぃけど、そうしてやってくれ」
 武骨な指が銀糸から引き抜かれ、遠慮なくその髪の持ち主を指し示す。素直に頷きながらもこの光景を目にすると同時に決めていた予定の変更を重ねれば、悲しげに、切なげに、眉を顰めて細く吐息を吐き出された。
「休ませてやりたいのは山々なんだけど、そんな暇、どこにもねぇからな」
「わかっているつもりです」
 わかる、とは言わない。いつだったか、そう言って知盛に叱られたことがある。
 お前にはわかるはずがない。わからないとは言わないが、わかると言うにはまだ遠い。謙虚さを忘れるな。驕るな。自惚れるな。そして、溺れるな。
 傲岸不遜の塊に見える“父”が意外や謙虚さの塊であることを知ったのも、いつのことだか忘れた。ただ、与えられる教えを蔑にするには、希は“父”のことを尊敬しすぎているだけであって。


 再び、無造作とも思える所作でやわらに銀糸を梳きながら、将臣は溜め息を重ねた。
「今度こそ、何とかなってくれるといいんだけど」
「……また、戦が?」
「あ? ああ、いや。違う。今度はちょっと、熊野までな」
「熊野というと、水軍ですか?」
「違わないけど、違ぇぞ?」
 どこかのんびりした言葉の遣り取りが、不意に緊張を孕む。巡らされた紺碧の双眸が、鋭い光を宿してまっすぐに希を射抜く。
「俺らだけで和議に持ち込むのは、正直なところ厳しい。だから、そのために熊野を頼りにいく」
 凛と、宣されたのはともすれば一門が将として許されまじき言葉。だが、それが許されるのがこの客人の纏う不可思議さの最たるものであり、それゆえに、きっと“父”がこの客人をいたく気に入っているのだろうと察している。
 息を呑み、目を見開き、希はそれからふと表情を歪めた。歪むのを、堪え切れなかった。
「………和議は、成りますか?」
 成ってくれるなら、成ってくれたなら。そうすれば、だって今ならばまだ“母”が五体満足のまま戻ってきてくれる。仮に五体満足でないとしても、まだ今ならば彼女の命が保たれていると期待していられる。
「成るか成らないか、じゃねぇよ。成すんだ」
 弱気に揺れる声の余韻を塗り潰すように、将臣は力強く言葉を編む。
「絶対ぇ無事に返してもらうぞ。胡蝶さんは俺にとっても大切な仲間だし、コイツとお前の、大切な家族だしな」
 いびつな表情を隠したくて、隠せなくて、結局顔を俯かせることしかできなかった希の頭を、わしわしと乱暴にかき混ぜる大きな手がある。穏やかに、豪気に、深い深い声であまりにも優しく覚悟と未来を語られてついに滲んだ視界を、希は黙って瞼の向こうに押しやってこくりと頷く。
 可否ではなく、やり遂げるのだと。どこまでも強気な言葉とあまりに荘厳な覚悟が実を結んだことを知ったのは、宣言通り熊野に向けて客人と“父”とが発ってから約二月後のことだった。

Fin.

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