朔夜のうさぎは夢を見る

無慈悲なあぎと

 “父”と“母”とが平家一門にとって非常に重い意味を持つ将であることは、希にとって誇りでもあり苦痛でもあった。あの方々に愛でられ、あの方々に道を示されている自分は素直に誇らしい。だが、同時にあの人達に守られることしかできない自分が、もどかしい。
 福原に復帰してより政務が一層の忙しさを増したらしく、希が知盛と顔を合わせることはほとんどなくなってしまった。邸に戻ってきてはいるらしいのだが、仕事を抱えて戻っているか、あるいは疲労困憊してすぐにでも休みたいかのどちらかであるらしい“父”の邪魔をするつもりは微塵もない。おまけに、どうやら近々戦が起こるらしく、その準備に奔走しているとの噂を耳にしてしまえば、なおのことだ。
 だが、事前準備にひたすらに奔走していたものの、当の知盛は出陣を見送る側に立っていた。知盛に置き去りにされるの姿は幾度か見たことがあったものの、その反対は初めて目にする。幼心に何か事情があるのだろうと察して口を噤んではいたものの、それにも限度がある。
 臨界点の突破は、月天将が害われたという報せによって、齎された。


 カタカタと、震える体は隠しようがなかった。耳にした言葉の意味を考え、目の前に座す人の性情を考え、もう一度、耳にした情報の真偽を疑う。
「……今、何と?」
「胡蝶殿の行方が知れぬようになってしまったと、申し上げました」
 政務やら軍議の一環やらで知盛邸をおとなうことも珍しくない重衡は、時間に少しでもゆとりがあれば、必ず希の許に顔を見せてくれる。今日も今日とてそんな気遣いの賜物だろうと思って迎え入れてみれば、告げられたのはあまりにも残酷な現実。
「指揮を失った怨霊兵を抑えに陣を離れ、そのまま戻られず。恐らくは、源氏方の手に落ちたものと」
 嫌だいやだと感情が脳裏でうるさいほどに泣き叫んでいるが、現実は覆せるはずもない。痛ましげに視線を伏せた重衡は、けれど躊躇いもせず淡々と事実を紡ぐ。
「還内府殿は捕虜の交換を打診するおつもりのようですが、果たして聞き入れられるものか」
「では、“母上”は……」
 ぽろりと口をついた呼称には何の反応も示さず、重衡は冷厳と告げた。
「最悪の報せを、今から覚悟なさった方がよろしいでしょう」


 無論、自分が受けた衝撃よりも、知盛が受けたそれの方が深いと察することもまた希にはできている。簡単に辞去のあいさつを残して早々に立ち去った重衡があえて自分にこの話を持ってきたのは、きっと自分の感情を制御し、その上でなおと政務に向き合わねばならない兄の心境を案じてのことであろう。
 耐えることに慣れろと、そう言われたのは三年前の冬のことだ。あれから少しは自分も強くなったかと思っていたが、どうやらそれは単なる思いすごしであったらしい。わかっていたはずなのにまるでわかっていなかった現実が唐突に目の前に立ちふさがったことに、希はただひたすらに、困惑を示すことしかできずにいる。
 わがままなこととは知りつつ、食膳には手がつかなかった。眠ることもできなければ、気を紛らわせようと手にした書物の字面を追うことさえできない。どうしようもない思いを、どうすることもできなくて。何か、何か心を紛らわせるものはないかとありとあらゆるものに手を伸ばし、最後に残っていたのは細身の小太刀だった。
 鍛練用にと与えられたそれは、かつてが修練に使っていたものだと聞いた。月天将殿の武勲にあやかれと、笑う知盛の真意は隣で聞いていたをからかうことにもあっただろうが、言葉のままでもあっただろうと希は知っている。


 夜闇に沈み、静寂だけがわだかまる庭に降り立って鞘を払う。心を鎮め、感情を削ぎ落とし、残すのはただ感性と理性のみ。流れる風を、たたずむ己を、四肢の先までさやかに意識を凝らし、刻むのはもはや身に馴染んだ剣舞。
 最悪の事態を覚悟しろと、言ったその口で重衡はまだ確たる証拠は何もないのだとも言っていた。ならば希にできることはただひとつ。届くとも知れぬ祈りを、ただひたむきに天へと送ることだけだ。
 どうか、どうかどうか。うたもまいも祈りなのですよ。そう微笑んでいたあの人の言葉は、“父”のそれと同じように偽りなど微塵も孕むことはなかった。だからきっと、この舞は祈りになる。願いを篭めて、祈りを篭めて。滔々と捧げ続けるその姿を、そしていつの間にやら眺める観客があったことに、ふと気付く。
 哀絶を底に沈め、揺らぎを一切映さない深紫の双眸は、かなしいほどに美しい。耐えねばならぬ。自分の思いは、きっと最たるそれではない。そう己に言い聞かせることで必死に我慢していたあらゆる思いが、音を立てて流れていく。
 いつしか動きを止めていた両足は、いつしか庭に裸足で降り立ってぼんやりと希を眺めていた父に向って駆け出していた。縋りつく体をやわりと抱き寄せてくれた腕のぬくもりに息を詰め、流すまいと思っていた涙が堰を切ったように零れ落ちる。
「……ちちうえ、ちちうえっ!」
「………お前が泣いて、どうするというのだ」
 どうしようもない内心は言葉になど変換できず、それ以外の言葉を忘れたかのように“父”を呼びながらむせび泣く背中に、呆れ果てたと雄弁に語る慈愛に満ちた声が降る。擦り切れてしまいそうにボロボロなくせに、涙の気配など垣間見せさえしない“父”のすべてがいっそう哀しい。とめどなく流れる涙で、この悲しい“父”の思いも一緒に流せればいいのにと。“母”の無事を願う胸の片隅で、いつしか希は切に祈っていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。