朔夜のうさぎは夢を見る

新たな日常

 予期せぬ方面の返答にぱちりとまばたいた希に笑って、は木々の合間に垣間見える海原を指差す。
「貝の一種で、長門の名産です」
 それから、滋養強壮にもとても効きます。そうのんびりと続けてから、呆気にとられたままの希の汗で濡れてしまった髪をやわりと撫でつけた。
「知盛殿は、領民にとても慕われておいでのご様子です。秋になるたびに届けられていたのですが、希殿は、覚えていらっしゃいませんか?」
「秋にいただいていた羹のことですか?」
「ええ、そうです」
 それはもちろん、覚えていないわけがない。当人を前にしてあえて口にするつもりはないが、何が印象的だったかといえば、その届けられたという品を手ずから調理して食膳に乗せていたのが、邸の主付きという高位の女房である点だったのだ。
「さすがにこの距離を運ぶとなると、日干しをせざるをえなかったようですが、新鮮なものは、また違った味わいがあるのですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。不作であらばお願いし辛いですが、分けていただけたらば、真っ先に食膳に供しましょうね」
 くすくすと笑いながら髪から指を引き抜き、はするりと腰を持ち上げた。


「朝廷からは、官位と共に知行国の没収の令が発せられたと聞いておりますが、民にとって重要なのは、令紙ではなく、実情です」
 ふと表情を改めると、このいかにも風変わりでたおやかな女房は、とたんに歴戦の勇将となり老獪な策謀家と化す。すぅっと引き上げられた口の端に刷かれた笑みは酷薄。希を通り越して遠く、睨み据えるは京か、鎌倉か。
「これより先、あなたにはこれまで以上に厳しい目が向けられることでしょう。“平知盛が息子”という名は、きっと、わたしやあなたが想像している以上に、重い意味を持っています」
 知行国だからと、これまでの実績があるからと、気を抜くわけにはいかない。むしろ逆なのだと、はその厳しい瞳で希に訴えかける。その上で、ふわりと包み込むようにして希を守ることを忘れない。
「その良い訓練にもなりますし、現状にも即しておりますし。食料の調達に、ぜひともお付き合いいただきたいのですけれども」
 いたずらげに微笑むことであっという間に緩んだ緊迫感が、楽しげな声によってぬくもりを増す。強張ってしまった肩を見透かすようにぽんぽんと軽く叩かれ、細められた双眸が優しく希に向けられる。
「わたしがついておりますれば、多少の危難は確実に排せます。共に、皆様のために、少しでも良い食材を探しに参りませんか?」
 もしかしたら、それは今まさにが口にした通りの意味しか含んでいないのかもしれない。だが、もしかしたら、ずっと希が胸の奥で燻ぶらせ続けている思いを汲んでくれての提案なのかもしれない。いずれにせよ、希には断るだけの理由がなく、この好機を無碍にするつもりは微塵もない。
「ぜひ、ご一緒させてください」
「ええ。では早速、今夜の分を探しに参りましょうか」
 差し伸べられた指を取って腰を上げ、希は思う。自ら厨に入って調理をするということを聞いて目を見開いていた頃から、いったいどれほどの距離を隔ててしまったのか。だが、現状は決して嫌いではない。きっと都人が耳にすれば盛大に眉を顰めるだろうこの窮状に、希はまったくもって幻滅など覚えていないのだ。


 そんな経緯があって時間さえあれば山やら海やらに食材を探しに出ていれば、当然ながら地元で暮らす人々と顔を合わせることになる。はじめは何事かという表情で遠巻きに見られていたのだが、汚れてもいいようにと水干を身に纏い、何も知らない希にひとつずつ「これは食べられる」「これは毒がある」といったことを教えながら歩いているの姿に、危険はないと判断したのだろう。
 なんとか体裁が整ったからと言って彦島から本土に拠点を移してからも変わらなかった習慣ゆえに、いつしかと希の組み合わせは、地元の人々の目に馴染んだ姿へと化していた。
「姫さん! もう芋は採ったかい?」
「いいえ。先日はまだ小さいようでしたので、残しておきました」
「もう十分だよ。そろそろ採った方がいいね」
「頼まれていた卵だよ。ほら、これで足りるかい?」
「ありがとうございます。無理を言ってしまって、申し訳ありません。御礼はまた、改めて」
「いいよ、いいよ。姫さんが煎じてくれた薬湯で、うちの子は助かったんだからね。お互い様だよ」
 食料を分けてくれないかと頭を下げながら対価として薬草を煎じ、質素とはいえ農民とは一線を画する小奇麗な衣装でありながら野山に臆せず分け入って山菜を探す。出歩く頻度がそう高いというわけではないのだが、の行動は衆目に留まるものであり、そこにちょこちょこと纏わりつくようにして希がついて歩いていれば親近感を買うのにもそう苦労はないということだったのだろう。
 還内府の指示ではじまった不慣れな開墾作業への助言から、果ては収穫物の裾分けまで。出歩くたびに彼女が拾って歩くありとあらゆるものに埋もれて、希は何とも複雑な思いである。

Fin.

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