朔夜のうさぎは夢を見る

やすらはで

 車を用いていながらも、強行軍を敢行すれば福原まではおよそ一日で辿り着く。取るものもとりあえず延びてきたのだからと息をついたのも束の間、しかし一門はすぐさまさらに西へと進路を取ることとなった。
「どこまで行くのですか?」
「とりあえずは、太宰府に。海を挟めば、皆様の御心も少しは安んじられましょうから」
 船に乗ったことなどない希にとって、福原を出立してからの道中は物珍しさこそが勝る。積める限りの荷を積み込み、馬を連れ、宋との貿易に使っていたのだという船を使って一行は西へと向かう。
 甲板に出て海原の様子を見つめながら、けれど口をついたのは感嘆の文句ではなく先を思う言葉だった。決して安全なものとも言えないからと、お目付け役として共に甲板に出ていたの隣にちょこんと座りこみ、希は与えられた言葉の意味を考える。
「胡蝶殿は、福原にいたかったのですか?」
 希としては、いつまで船に乗っていられるのか、という意味で行き先を訪ねたつもりだったのだが、返された声には隠しきれない憂愁が滲んでいる。なればこそ、福原を不本意にも去るという現状が心を重くしているのかと思って問いを返せば、は虚を突かれたように目を見開いてから、くすくすと喉を鳴らした。
「いいえ。一門の皆様と共に在るのなら、いずこであってもそここそがわたしにとっての都です」
「じゃあ、どうしてそんなに悲しそうなんですか?」
「そうですね」
 曖昧に微笑んでから希に合わせていた視線を海へと飛ばし、は真意の読めない微笑のまま、告げる。
「見たことのない土地ですので、少なからぬ不安を覚えているのですよ」
 それだけではないだろうことは希にも察せたが、それ以上を問うても答えてもらえないだろうことも察せていた。だから、希もまたに倣って視線を海原へと転じて、小さく「そうですか」と相槌を打つにとどめておいた。


 果たして不安が的中したと言うべきか。ようやく誰もがいたずらな不安に駆られることもなく腰を落ち着け、さて、ここから勢力を立て直そうというところで、牙を剥いたのは土地に根差した豪族の一派であった。平家は西国の豪族と縁が深い。なればこそ彼らを頼って西へ、西へと落ち延びてきたというのに、その彼らに反旗を翻されては恐慌状態に陥るのも無理からぬこと。
 それが戦時の常と肌で知る知盛らはともかく、決して短くはない公卿としての日々を宮中で煌びやかに過ごしてきた一門にとって、その反駁はあまりに衝撃的だったのだろう。福原を捨てた折りと同じような騒乱ぶりに冷めきった表情を浮かべていた知盛の口から、希は次なる目的地が長門であることを聞き知った。
「長門は、父上の知行国ですよね?」
 総領は還内府という得体の知れない存在であるらしいが、それと知盛の多忙さとは全く別問題である。直接目的地を希に教えてくれたのは、先んじて長門に入り、周辺の豪族との折衝をするための旅支度を取りに邸に戻っていたからだ。
 都落ちのきっかけとなった倶利伽羅峠の戦後処理よりこちら、何かと忙しいらしく滅多に顔を見る機会のなくなってしまった“父”に代わって、希の剣術の鍛錬に付き合ってくれるのはもっぱら月天将である。長門まで後一歩というところに迫った彦島で足止めを余儀なくされた、けれど懐かしき安寧に満たされた時間を久方ぶりの鍛錬に充ててこてんぱんに叩きのめされたところで、希はふと思い立って隣のを振り仰ぐ。


 汗ひとつかいていない、というのはさすがに知盛にのみ通用する異常なまでの強さだったようだが、息ひとつ乱していないという領域はとて存分に到達しているものらしい。しばらく無言で肩を上下させることで何とか呼吸を整える希の隣にが腰を下ろしたのは、手合わせを終えて、よろよろと希が草むらに座り込んだ目の前で実に見事な剣舞を四種類、立て続けに舞いあげてからのことだった。
 代行を命じられ、自分にはそれほどの腕はないと断ろうとしていた場面には居合わせた。その上で、手合わせで適当にあしらえばいいと付け加えられてそのぐらいなら、と渋々了承を返していたのだが、なかなかどうして容赦のない師である。
 足止めの理由は、何のことはない。ただ単に、居住空間を整えきれていないというものだった。同道している帝やら二位の尼やらといった高位の方々には土地の有力者の邸を借り受けた上での滞在が叶えられたらしいが、そればかりを頼るわけにもいくまい。知盛自身がかつて使用していたという邸の手入れにはじまり、簡素とはいえ寝起きに使える家屋が用意できるまでは、むしろ船で寝起きをする方がマシというだけなのだ。
「この時季ですと、牡蠣が美味と聞いております」
 別段物騒な理由でもないので、郎党らは主にそちらに労働力として出向いているし、同時にこの彦島に砦を築いておけば何かと使えようという知盛の提案を受けて、そのための人員も割かれている。嫌な緊迫感からの解放もあってだろう。空元気にも似た、けれどどこか伸びやかな空気に満ちているからか、問いに対してのの答えは、どこかのんびりとした雰囲気を纏った、のどかなものだった。

Fin.

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