ここにいるよ
そしてどれほどの時間を過ごしただろうか。焦がれ続ける心は時間の進みを遅々として捉え、正確なことはわからない。ただ、力強く地を蹴る蹄の音が幾重にも響き渡るのを聞き、さっと走った緊張と期待の気配に希もまた視線を跳ね上げる。
「何ぞ、異常は?」
「何事もございませぬ」
「還内府殿は?」
「二位の尼様の御車のお傍におられるとうかがっております」
「伝令を……池殿は、参られぬ。俺達で、最後だ」
「はっ!」
常と同じく感情の揺らぎなど微塵も感じさせない淡々とした声は、しかし確かな緊迫感に貫かれてどこか張りつめていた。これが、将としての“父”の姿。迂闊に踏み込むわけにもいかず、息を詰めて御簾の向こうをじっと見つめながら、希は遣り取りに耳をすませる。
「兄上、それでは私も、様子見に参りますので」
「ああ。……ご苦労だったな」
「兄上方ほどではございませんよ」
鋭く了承の言葉を残した気配があっという間に前方に去るのをしばし見送ったのか、小さな沈黙を挟んで“父”によく似た声がやわらに告げる。
なるほど、しんがりを務めたのは平家が誇る勇将の兄弟だったのだろう。還内府なる存在がいかな立場のモノであるのかは希の預かり知ったことではないが、嫡流の公達二名を前にして、がいたずらに口を開くわけがない。
気配を探るにしても、限度がある。早く無事を確信したいのにと、じりじりと燻ぶる内心を必死に押し殺して両手を握っていれば、待ちわびた情報を示唆する言葉が続く。
「これより先は、我らがお守りいたしましょうゆえ。どうぞ、胡蝶殿はごゆるりとお休みくださいませ」
「……かたじけなくも、ありがたく存じます」
響いたのは、確かに“母”の声だった。疲れをあからさまなほどに滲ませてはいるものの、強がりを返すだけの余裕はかろうじて残されているらしい。くすくすと響くよく似た、けれど色味のまるで違う笑声に紛れさせて、希は知らず詰めていた息を大きく吐き出す。
「しかと、休めておけよ……お前はこの先、御簾内に隠された、暗器のようなものだからな」
「かしこまりまして」
続けて謡うように嘯かれた物騒な言葉にもさらりといらえ、愉しげに揺らぐ銀色の気配を、闇色の笑みが彩る。
「有事においては、女武者は木曽だけが擁すものではないと、目にもの見せてくれましょう」
「頼もしいことだ」
「まこと、下手な郎党よりも勇ましくていらっしゃる」
くっくと喉を鳴らす“声”とやわらかく溜め息を吐き出す声が重なって、最後には笑声が三重に折り重なって夜闇に溶ける。
「だが、まずは子守りが先か……休める時に休まなば、身がもたん」
「なれば、早々に胡蝶殿を譲って差し上げればよろしいでしょうに」
「手放すのは、惜しくてな」
笑う声が揶揄している先は明白。ぱっと目を見開いて思わず乗り出していた身を引けば、同じく黙して外の遣り取りを聞いていたのだろう女房が声を出さずに笑んでいる様子が目に入る。
「今のうちに、身を休めておけ……。福原に落ちつけると、その保証は、どこにもないのだからな」
ふと低められた声は、確かに希に向けられていて、けれどそれだけではないようだった。あっという間に重みと凄みを増した空気を纏わりつかせたまま、重衡は自分の邸の者達が集う一角へと馬脚を向け、知盛は先を行く母君の許へ向かう。その蹄の音が遠ざかるのを待ってから御簾を持ち上げて器用に動く車に乗り移ってきたは、何とも言えないいたたまれなさに頬を紅潮させてうずくまる希に、小さく「戻りました」と笑いかけてくれた。
Fin.
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